労畜の楽書き帳

労畜(https://twitter.com/rebreb01541)の雑記です。

棒と穴から始める2024年の過ごし方と2023年の振り返り

気が付けば2023年が終わってしまっていた。時の流れが頗る速くて驚くばかりである。老化の成せる業かもしれないけれど、一年があっという間に終わってしまう。しかも2023年に起きた事、体験した事の多くを思い出せない。プチ浦島太郎状態である。こうして自分は着々と老い衰え朽ち果てていくのだろう。人生とは儚いものであり、夢のように曖昧で模糊としていて、朧とも襤褸ともつかぬほどに霞み、破れ継ぎ接ぎだらけになっているものである。

話は変わるが、ふと人は何故美醜について殊更に関心を抱くのだろうかと考えるなどしている。生殖を例として考えてみると、究極的には棒と穴さえあれば生殖は成り立つのであり、容姿の美醜など本質的なものではない。何せ容姿の美醜がどうであろうと、棒が穴に入りさえすれば生殖は果たされるのである。その後、家族として過ごす時間においても、容姿の美醜などどうであろうと大きな影響を及ぼさない。

などと言えば大分極端な話であり、此奴は新年早々に何を意味不明な話をしているのかと思われるに違いない。下手をしたら大地震の発生の都度、やれ地震兵器だの人工地震だのと叫べる脳に何らかの障害を来している可能性を危ぶまれる人々よりも脳に問題がある可能性を疑われるかもしれない。

だが、一度冷静に考えてみて欲しい。ある種、容姿が最も大きな影響を及ぼすであろう人間の営みとは生殖行為である。にもかかわらず、その生殖行為において、容姿などというものは、精々気付け薬になるかならない程度の些末な要素でしかない。何せ穴に棒を入れさえすれば生殖行為は完了するのである。

いやいやその穴に入れる棒を穴に入れられるようにするために容姿が重要なのではないかと反論があるかもしれないが、それでは目隠しプレイは何故成り立つのかと反駁したい。目隠しプレイの存在が、容姿の美醜の価値を限りなくゼロにしてしまっているのである。あれなどは、妄想や過敏になった感覚により興奮状態を強化し、穴と棒が最高のマリアージュを果たす快感を楽しむ行為であろう。

目隠しプレイが成立する以上、穴と棒が交わる行為において容姿の美醜を些事と切り捨てるのは可能でなかろうか。まあ、自分で言っておいて言うのも何だが、精々可も不可も無く程度かもしれない。そもそも目隠しプレイを楽しめる人間は相当な好き者である可能性が高く、マジョリティではないだろう。

さりとて、「暗くして」なんて一言が多くの生殖行為において交わされている以上、目隠しに近いプレイは市民権を得られていると考えられ、やはり容姿の美醜の重要性はそこまで大きくないのでなかろうかと思わなくもない。世の中に生殖行為に容姿の美醜がもたらす影響について調べた論文があるかは定かでないが、論点として気になるものである。


美しさと魅力の心理

話を戻すが、2023年も遂に終わりである。新型コロナウイルスの熱に浮かされた2021年、2022年を経て、その出口となった一年だったように思う。クソ田舎に住み、彼此十年近くの月日を在宅業務と共に過ごしている身としては、然程大きな影響を受けたように感じていなかったが、それでも外出時の周囲の変化を感じる機会は少なくなかったと言えれば良いのだろうけれど、実際問題として観光も死んでいるクソ田舎にあっては大きな変化を見られたような感触はなかった。

観光促進の旗印を元に自称議論を交わしている自治体がこの有り様で良いのだろうかと思わなくないけれど、失敗に失敗を重ねるばかりで何ら成長の見られないイツメンで公正されている寄り合いの議論が相変わらず続いているので、今後も国の金を浪費し続けながら失敗に失敗を重ね続けるのだろう。尚、近隣自治体は一定の成果を出しているように見られるため、クソ田舎が冴えないだけである。国の事業はナンセンスにせよ、国のせいで失敗しているわけではない。

自身の2023年を思い返すと、まあ、仕事ばかりしていた印象が強い。逆に仕事以外に何か出来たのだろうかと記憶を辿ったところで、これといったものが思い浮かばない。それだけ仕事に時間を割いて何か成せたかと言えば、そういったものは特になく、ただただ時間を溶かしただけといった気持ちになる。

 

rotic.hatenablog.com

強いて言えば、能力不足の上司の下を離れる事に成功した件が、あくまで自身の中において成した事だろうか。社内外を問わず、異常と言われていた状態に陥っていたので、本件は自分としては好ましい話だった。尚、能力不足の上司は未だに能力不足なまま職位を維持しているらしいので、弊便チャーは本当に優しいと感じる。

一方で新たに能力不足の上司の上司になった者は手を焼いているらしいので、さっさと降格させたら良かろうにと思わなくもない。まあ、単なるメンバークラスの人材としても使い物にならないわけだが。今年入社した新卒の方が使えるのだから感心せざるを得ない。

読者の中には能力不足の上司を育成する環境はないのか疑問に感じるかもしれないが、ないのである。おまけに能力不足の上司の最上位には能力不足の役員がいるので、本当にどうしようもない。こんなに無能な役員擁する管理部門を放置しているのは何事か、とでも出資者や監査法人、証券会社に言って欲しいものである。

それにしても、新たに雇った管理部門における管理職・エグゼクティブの大半がまるでワークせず、いたずらに高額な人件費を垂れ流し続けているわけだが、これ程までに上位層の採用に失敗し続けるのも驚愕である。自分が関与した採用についての成否は厳しく見ても成功:失敗=6:4くらいで、実際にそう評価されているが、管理部門における採用の成否は甘く見ても成功:失敗=2:8である。

日本全国探しても、これ程までに管理部門における管理職・エグゼクティブ採用に失敗している新興グロース企業も珍しいのでなかろうか。潰れていないのが不思議な程であるが、自分が関与していた部門を除けばメンバークラスが比較的優れているので何とかなっているのだろう。

完全に他人事のように眺めているけれど、拙い管理職・エグゼクティブの影響を少なからず受けるわけだから、割と堪ったものではない。やはり条件に目を瞑ってでも外資に転職しておくべきだったか、などと思わずにいられない。2024年については、謎の2階級特進を押し付けられた上に大量の仕事を押し付けられている。

死亡フラグにしか思えないので、どうにか押し付けられた仕事を別の所に押し付けられないか交渉したい。それか、やはり個人事業専業に戻るかである。哀しいかな、再立ち上げに時間を要するのは致し方ないにせよ、自分で稼ぐ方が所得は上がるだろうと予想される。自分は一体全体何故便チャーに席を置き続けているのだろうか。2024年も問い続ける一年になる気がしてならない。

 

地元住民の話と共に宮城県気仙沼の旧・赤線街「太田租界」を歩く

Twitter(X)を眺めている限りにおいては余りイメージされないかもしれないけれど、私生活においても仕事においても割と意識的に他者を褒めるようにして生活している。といってもそもそもTwitter(X)において褒めていない認識をそこまで強くは持っていないというか、Twitter(X)の仕様を考えるに褒めるみたいな発言をし難いように感じなくもない。

まさか見ず知らずの他人のツイート(投稿)に対して、見ず知らずの自分が「ブラボー」なんて急にぶら下げるわけにいかず、空中に褒め言葉を並べたところでそれが褒める発言なのか何か一人で意味不明な高揚をしているのか判別が難しいように思われる。一方で否定的な発言なんかは空中に投げたところで何故かそのままの意で通じてしまうのだから不思議なものだ。不思議というか自分としては不均衡だなあなどと思わずにいられない。

確かに筆者はネガティブな側の人間ではあるのだけど、何も世の中の一切合切に不満を持っているわけでなく、森羅万象全てに対して欺瞞や欺罔が存在していると思っているわけでない。自身の現在の仕様上、どうしたところで些細な点に不安を感じてしまうので懸念や疑念を持ってしまうケースは多いにしても、やはり何も否定したいわけでないのである。

Twitter(X)歴は全てのアカウントを辿れば彼此15年近くになるわけだけど、この点については未だに上手く整理して使えていないので、今後の課題に感じている。Twitter(X)に限らず、一対多の発信において一側の制御が自身のみに帰属するものは非常に多く、同様の課題は其れ等全てに纏わり付いているわけだから。

ここで少し話を戻して「褒める」についてである。特に仕事においての話になるが、仕事において他者を貶したり否定したりするよりも褒める方が好ましいのは、誰にとっても容易に想像がつくと思われる。筆者もそう思っており、実際問題として意識して褒める方が何かと都合良く進めやすく、それが結果的に仕事の進捗を滑らかにしている。

一方で、難しいと感じるケースがちょいちょい出てきて悩んでいる。簡単に言うと、Aを褒めることがすなわちBも褒めることに繋がらないことである。例えば上司から「Aさんについて困っていることがある……(具体的な話)」と話されたとき、「なるほど。それは大変ですね。とはいえAさんもAさんで(Aさんについて褒められる点を挙げて褒める」と返したとする。

すると、間接的に困っている上司をやんわりと否定する形になって上手くない。だが、「いやぁ、Aさんは本当に駄目ですよね」などと同調する形でAさんを否定すると、一見その場限りの同調を示した形であるが、その否定は後まで尾を引く形となり、巡り巡ってAさんに対する直接的な否定に向かい、Aさんとの関係構築の破綻を招きかねない。

Aさんに対してそこまで否定の気持ちを持っておらず、それどころかAさんの褒められる点を理解しているにもかかわらず、である。とはいえ、困っている上司をやんわりと否定するのが褒められる行為であるわけもない。とても些細で些末な困り事かもしれないが、直近、こうした場面が何度もあり、筆者としては上手い答えを見つけられずに悩み続けている。

 

さて、話は全く変わって、そこはかとない赤線と廃墟のような姿と化したとある地域の話をしようと思う。カップル達が幸福にうつつを抜かすクリスマスイブに、路肩で雪かきに勤しむ70代の心根の優しい御婆様をナンパして、ではなく御婆様に雑なヒアリングをして聞いてきた話をツラツラと伝えようと思う。刺激は強くないが、余り公言するような内容でもないかもしれないので、いつもの通り有料である。

 

ちなみに今回語る地域にかつて存在した遊郭は、今や地元スタートアップの拠点へと姿を変えようとしているらしい。中々味のある話である。取り立てて含みのある発言ではないので、その点はご留意いただきたい。

廃漁網をアップサイクルする拠点作り!元遊郭をリノベーション | 移住支援と地域情報 SMOUT(スマウト)

ちなみに本記事より詳しく調べて語っている記事は他にあるので、わざわざ金を払ってまで読む価値はないかもしれない。ライターを本業としている人間が自身の記事に対して何たる言い草かと思われる可能性を考えたが、そもそも筆者についてそこまで想いを馳せてくれる人間はそう居ないと思われるので杞憂に違いない。

宮城県気仙沼市の銘酒屋街「太田租界」(2) - しょっぱい営業がカメラを構える!

というよりも、上記の記事の筆者と異なり、筆者は一応地元の人間であるため、これ程無邪気にカメラを回せず、また取材をしようにも少々事情があったことから、やはり無邪気に行うのは憚られたため、この点については完全なる外部の人間にこそ利があると感じた。

地域に深く入っていき関係性を構築すれば、筆者の身の上でも深く掘り下げられたかもしれないが、少なくともその入り口に立ったか立たないかの現状でそれをやるのは難しい。そもそもカメラを提げて歩いていただけで、周囲の視線が痛く、結構な緊張感を強いられたのが実情である。

それはそれとして、最近は「薬屋のひとりごと」を読んでいたので、遊郭と言おうか妓楼のような話はとてもタイムリーであり、不思議な縁を感じたものである。もっともあくまで東北の辺境にある田舎の話には違いなく、「薬屋のひとりごと」で描かれる華やかさとでは天地の差が開いているわけだけど。


薬屋のひとりごと 1巻 (デジタル版ビッグガンガンコミックス)

 

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「豊かさとは何か」気仙沼市への移住者を通じて考える地方での生き方

ふとした瞬間に「幸福とは何か」「豊かさとは何か」といったことについて考えを巡らせている、などと言えば心の病んだ人間を想わせるけれども、事実心を病んでいる身なので致し方ない。

note.com

昨日、市内の喫茶店を訪れた際のことをつらつらと書いたわけだけど、多様性云々は別として、夫婦が子どもを慈しみながら仲睦まじく汗を流している姿には、ある種の明確な幸福感が存在しているように想えた。店を訪れていた自分以外の人々も顔を綻ばせながら思い思いの時間を過ごせているように見て取れており、そうした幸福感は、多くの人々にとって共通の感覚なのでなかろうか? と示唆を得たような気になった。

無論、その瞬間に感じられた幸福感とは、刹那を切り取ったものであり、永遠に続くようなものでない。そもそも自分から見て幸福感めいたものが感じられたわけだけど、当人達にとっては苦しい瞬間である可能性も否めない。店を訪れていた人々にしたところで、実際に幸福感を覚えていたかは定かでない。完全なる自分の想像である。

若干の言い訳を挟むならば、幸福感なるものはおよそ主観的なもので、同時に刹那的なものだから致し方ないということだ。幸福感とは何かをふとした瞬間に問うている自分ではあるけれど、流石にそのくらいは理解しているし、それ自体はどうしようもないものだと感じている。一方で、幸福感の実像を何ら思い描けていない自分にとって、今回喫茶店を訪れて過ごした刹那は、非常に示唆に富むものだと感じた。

これは先日訪れた場所で目にした光景の一つである。親子や子供同士の語らい、老人達の憩う何気ない刹那の光景だけれど、ここにもある種の幸福感のようなものがあるように感じられた。

先述した内容との共通点といえば、親しい人と人とのふれ合いだろう。孤独でないことが幸福であるかのように語られる昨今の社会を想うに、確かに孤独さが感じられない二つの光景は、幸福の象徴と言うべきものなのかもしれない。

だが、必ずしも独りでいることが不幸ではないのが実情である。独りであろうと確かな幸福感を得ている人々は少なくないし、近年は寧ろそうした人々が増えている筈だ。そう考えると、「幸福とは何か」やはり分からなくなってくる。

まあ、ここまでの話を引っくり返すようで申し訳ないけれども、そもそも幸福の定義は一つでない筈で、人の数だけ存在するものなのだろう。だからある種考えても仕方ない話なのかもしれない。とはいえ仕方ないで済ませて良いと思えないから、ふとした瞬間に考えてしまうわけである。

個の豊かさを通じて地域の豊化が創る好循環を見せる気仙沼市

先日と言えば、偶々とある人に案内され、どの道休日の時間の使い方に悩んでいたこともあり、気仙沼市のとあるイベントに参加した。場所はPier7である。

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岩手の辺境にある大船渡市の更に辺鄙な場所で開店したcafe gullで大海原を望んだ話

「Work As Life」なんて言葉が俄に意識されつつある昨今、私生活の大部分を何らかの形で仕事に繋げる生活を送ってきた身としては、「Work Life Balance」をそろそろ真剣に考えなければならないとある種の強迫観念のようなものを抱いている。

そもそも「Work As Life」とは何ぞやと想った人々の為に一応簡単な説明すべく、昨今話題のAIの中でも、Google 検索に恐らく最も詳しいSGEによる解説を載せておく。

ワークアズライフとは、仕事とプライベートを一体化させることで、ストレスを適切に管理し、充実した生活を送る考え方です。

要するに、仕事とプライベートの境界を曖昧にしましょう的なとち狂った話である。「社畜」を何だか良い感じに横文字にしたものとしか思わないが、この言葉を生み出した人間は、恐らくそう思っていないのだろう。所謂無意識社畜というやつである。哀れみしか感じない。

それはさておき、そんな社畜生活と言おうか労畜生活を送ってきた私だが、この数年はどうにも上手くない。とりわけここ数ヶ月は心身共にとても正常とは言えず、土日祝日の休日が来る都度グダついた時間を過ごしている。

大きなストレッサーになっていた仕事の方は、部署異動によってストレスが大分緩和された。前部署のストレスによるダメージを絶賛引き摺っており、その影響は大きいのだと思う。とはいえ、ここ最近は大元のストレスとはオサラバしている。

明らかに障害の診断を受けた直前に近い状態になりつつあり、週末の度に危機感を募らせているが、抜本的な対策を打とうにもどうしたものか分からず、かと言って通院の度に相談しているものの、クリティカルな対処ができずにいる。

大きな指針としては、兎にも角にも休むことなのだが、問題は自分にとっての休養というものを未だに見つけられずにいることである。部屋で休んでいたところで、諸々のストレスが生じ、休めた感じはしないのである。

仕事さえ存在していなければそうしたストレスは幾らか緩和されるのかもしれないが、かと言って昔のように仕事も何もせずにひたすら自堕落な休息の日々を何年も送るわけにはいかない。

癒しや安らぎのようなものを得られる術を持っていれば良いのだろうけど、生憎、そうしたものとは無縁の人生を送っている。自分にとって何が癒しや安らぎになるのか、想像すらつかない。そんなわけで、なるだけ体力の消耗を避けて、気晴らしをちょこちょこ挟むよりない。

nordot.app

今回、気晴らしの方法として選んだのは、新しく出来たらしいカフェの利用である。出来てから若干ながら日が経っているのは、少しだけ理由がある。土地勘のない人間には分からないと思うのだけど、こちらのカフェが建てられた大船渡市赤崎町長崎というのは、ただでさえ辺鄙な大船渡市という田舎にあって、かなり辺鄙な場所である。

市内に住んでいる人間でさえ行くのが億劫になる場所であり、だから開店こそ開店の数ヶ月前から知っていたけれど、今の今まで行かなかったのである。この先行くことがあるかはかなり怪しいが、とはいえこの地域はこの地域で、一度くらいは記事にしたいと思っていないでもない。

まあ、どれくらい辺鄙な場所にあるかは、Google MAP を見るだけでも分かると思う。大船渡市における中心地として分かりやすい場所を何処にするかは悩ましいが(何処も彼処も似たような寂れ具合なので)、仮に三陸鉄道の駅である盛駅を起点にした場合、そこから自動車で20分程度の位置と言えば、多少辺鄙さは伝わるかもしれない。

少なくとも何かのついでで行くような場所ではなく、cafe gullを利用する目的でもなければ、まず行くことはないと思われる。なお、Google Map上で、海水浴場があるように見えるが、現在使われていない海水浴場である。

www.city.ofunato.iwate.jp

少なくとも開設対象となる海水浴場として、現在認識されていない。一方で、ふれあいランド尾崎岬は、辛うじてまだ営業している。

www.city.ofunato.iwate.jp

海を見ながら楽しめるキャンプ場であり、バンガローなどもある。かなり古くから営業されているが、いつ行っても大体閑散としている。もう少しどうにかならないものかと思わなくないが、先程伝えたように、市民でさえ行くのが躊躇われる辺鄙な場所なので、やむを得ない面がある。

ちなみに今日立ち寄ったら、私以外には来訪者がいなかった。通常運転である。管理人くらいしかいない日が多いのでなかろうか。

存外大船渡市では少ない広大な海の眺望を楽しみながら、アウトドアも楽しめる場所なのだが、寂れている印象しか受けないのは残念である。まあ、大船渡市全般がこうした残念さに溢れているので、ある種そういうものと割り切れなくない。

 

rotic.hatenablog.com

海の眺望を楽しみながらアウトドアを楽しめる場所としては、それこそ先日伝えたスノーピークが管理・運営を担うお隣陸前高田市のキャンプ場が洗練されているため、そちらを利用する方が賢明と言えるだろう(滅茶苦茶金がない、金を使いたくないなら此方の方が良いと思うが、比較すると安かろう悪かろうな印象は拭えない)。

余談だが、辺鄙な場所にある海の眺望が楽しめるカフェという意味では、カフェ・ビアンも同じである。

note.com

他にも辺鄙な場所にあるカフェは複数店ある。大船渡市は、自治体が辺境にある上に、カフェ等の店舗も辺鄙な場所にあるため、とかく利用を検討し難い面がある。市内に住んでいる人間は、どの道自家用車で移動するため、何らかのついでに立ち寄ることはあろうが、住んでいない人間はそうでない。

明らかに観光に不向きな地であり、昨今は近隣の自治体にさえ大きく遅れを取っているが、そうした中でも観光を産業にすると息巻いている。全く以て理解し難いが、そうした動きを主導する人々が、地元思考しか持ち合わせていないため、然もありなんといった印象を受ける。

閑話休題。cafe gullに話を戻す。ここからは有料にするが、cafe gull自体については、公式のInstagramがあるので、そちらを参照する方が良いかもしれない。実際に行ってみてどうだったのか、とくに遠慮も配慮もない記録を読みたい人、画像を見たい人がいれば、買って読んで欲しい。

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書くという行為の自身の中での位置付け

自分自身をクリエイターと称するのは、正直なところ畏れ多い、それ以前にクリエイターを構成するだろう多くの要素が欠けていて適切でないと感じているのだけど、さりとて商業ライターとして飯を食ってきた以上は、最低限の矜恃と言おうかポリシーめいたものを何かしらは持つべきと考えていて、だからこそクリエイターとして高い次元の仕事を成していくための術、考え方のようなものについて、可能な限り頭を使うようにしている。

 

そうした思考をしていく中で至った考えの一つが上記のツイートなわけだけど、それでは自分自身の制作において痛みや喪失を伴いながら切るような行為をしてきた物があったか記憶を辿ったところで、そうした物に思い至ることはなく、だからこそ自分はクリエイターとしては半可通、以前にそもそもクリエイターたり得ていないのではないかと感じずにいられない。

ここで少し脱線し、はてなで見つけた『お題「邦画でも洋画でもアニメでも、泣けた!というレベルではなく、号泣した映画を教えてください。」』に噛ませて、号泣(と言って良いかは悩ましいが)した作品を挙げるのであれば、やはり「映画大好きポンポさん」が挙げられる。


映画大好きポンポさん

評価や興業収入といったものがどうだったかは分からないし興味ないが、自分の中では過去見たアニメ映画の中で最も胸打たれた作品で、映画のような時間的拘束が比較的キツい映像作品を複数回見るようなことを殆どしない自分が、珍しく複数回見た上で、時間的余裕さえ確保できるなら何度でも見たいと感じた作品だった。


例えば

劇中歌の花譜「例えば」が感嘆する程に良かった面もあるが、最高と思える作品を作る為に身も心も思い出も切り開いていく映像が、ある種創作の真理を描いているように感じられ、またその背景にある主人公の過去積み上げてきた物全てが作品に昇華されていく様が胸に刺さった。それはきっと多くの人々に同様の感想を与えるようなものでなく、自分という人間の内にある何某かの背景があったからこその感情であり感傷であったからこその感動だったのかもしれないが、何にせよ涙を流すには十分な素晴らしい映像だった。

また、理由は異なるし、号泣したわけでないが、「すずめの戸締まり」はあの日被災地に居て、被災した人々の喪失に触れ続けた自分としては、胸に来るものがあった。その辺りについては、以前書いた通りである。

rotic.hatenablog.com

 

閑話休題。本題に戻ろう。と言っても、今回は本題というものを何ら用意していない。街を歩いていて見かけた気になる店に立ち寄るような感覚で、フラッと書き出したものだから、今この行の文章を書いている今も何を書いたものか全く考えが及んでいない。そもそもこのブログ自体が、何を書こうとか何を伝えようとか、そうした明確な目的を持たずに始めたものである。流れのまにまにその日思ったこと、やろうと思った何某かの理由を携えて気儘に書いている。

はてなブログもnoteのように記事を販売できるようになり、noteで書いていた物をこちらに移そうかと思った時もあったが、結果的にそうした動きを取っていない。面倒臭かったというのもあるが、何となく何かが違うと感じたからというのもある。元々こちらで書いていたような内容をnoteに移したのだから、それをこちらに戻すのはある種自然な流れと言えなくもないのだが、そう思って尚、何かが違うと感じるのだから不思議なものである。

過去、ブログを作っては壊し作っては壊しを繰り返してきた。取り立てて何かポリシーのようなものがあるわけでない。寧ろ壊さずに自分の記録として残し続けた方が良かったのでないかと思いもする。それくらい自分にとってのブログ運営とは曖昧で模糊としたとりとめもない存在であり、行為である。一方で、書くという行為は長らく続けてきたように思う。

軽く思い返すだけでも20年少しは何かしら書き続けている。日誌から始まり、日記に移り、ガラケーでのブログ、SNS、小説、ビジネス系の各種メディアの記事やメルマガの代行、報告書、デジタルのビジネス書、イベント広報など、細かく思い出せない程には、色々と書き続けてきた。それが仕事、飯を食うための本業になるとは思いもしなかった。恐らくこれからも何かしら書き続けるのだろう。

人生、ある行動が何に繋がるかなど分からないのが常である。その意味で、自分にとっての書くという行為がこれ程までに広がったことは驚きであると共に、そういうものか、とも思う。この先、どこに繋がっていくのか取り立てて期待も願望もないが、時間さえ許せば何かしら書き続けたいと思う。そう考えると、落書き帳と銘打ったこのブログは、ある種自分にとっての書くという行為を体現したものなのかもしれない。

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日本人のための「書く」全技術【極み】


書く習慣 自分と人生が変わるいちばん大切な文章力


書く瞑想――1日15分、紙に書き出すと頭と心が整理される

スノーピークが東日本大震災被災地の辺鄙な場所に開設した「スノーピーク陸前高田キャンプフィールド」を歩いて感じた諸々の話

気付けば在宅就業という名の引きこもりになって10年が経つ。

便利な世の中になったものだと思う一方で、非常に拙い状態になっている自分に暗澹たる気持ちになっている。

運動不足なのだ。

一時期、毎月のように風邪を引くようになった。流石に「ヤバいですね!」と思ったので、ステッパーを買った。


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よくテレビの通販CMで流れているやつである。ちなみに通販CMを見て買ったわけでなく、ホームセンターで買った。

毎日10分。本を片手に、500-600歩くらいは足踏みするようになった。たかが10分、されど10分といったところだろうか。毎月のように引いていた風邪は、いつしか引かなくなった。

 

だが、次の問題が生じてきた。

体力が明らかに落ちているのである。持久力に至っては壊滅的で、恐らく1kmを走るだけの持久力を今の自分は持っていない。

加えて、この一年で急激に体重が増えた。腹も出た。ただ、自分は彼此20年近く体重が変わっていない。25年前に買ったデニムパンツを未だに履けるくらい、体型が変わることがなかった。

体重が増え始めた頃、明らかに胃腸に不調を来しており、食べるのも辛くなったため、体重の増加は何かしらの病気なのでないかと疑い、今尚通院しているが、今の所肥えた以外の結論が出ていない。

とはいえ、完全に健康体というわけでもないようで、その原因を探り続けている。

 

そんな明らかに運動不足な日々を送っているため、流石に多少は外に出なければならないと自覚的になってきている。

とはいえ、何もない田舎である。外に出たところで何もなく、ただただ時間を浪費するばかりとなる。しかも移動には自動車を使わざるを得ない。歩くためには何かしらの理由や目的、歩く必要性を作らなければならない。

 

そこでふと思い至ったのが、「最近スタートしたスノーピークのキャンプ場を見てこよう」である。と言うわけで今回は、何を想ったのか、スノーピークが交通利便性が壊滅的で集客を望めない地域に開設したキャンプ場を歩いてきた感想について書く。

www.snowpeak.co.jp

尚、大部分が有料である。

 


スノーピーク「好きなことだけ!」を仕事にする経営

スノーピークがキャンプ場を開設した岩手県陸前高田市とはどんな地域か?

陸前高田市は、東日本大震災において非常に大規模な被害が発生した地域で知られる人口1万人少しの小さな町である。

東日本大震災津波伝承館が設置されている。併せて国営の追悼祈念施設も設置されている。東北沿岸部に加えて茨城県・千葉県の沿岸部が広く被災した東日本大震災において、国営の祈念施設の設置場所として陸前高田市が選ばれた理由はよく分からないが、なんとなくそれを納得させるだけの被災規模だったのは一定の事実と思われる。

iwate-tsunami-memorial.jp

また、少しだけ変わった話題で言えば、自動

運転の実証実験が実施されていることが挙げられる。確か、乗ろうと思えば乗れるはずである。

iwate-fukkokinen-park.jp

加えて、居酒屋チェーンで知られるワタミが、農業をテーマにした施設(と呼べるのか定かでないが)を設置し、運営している。

watami-organic.jp

今一何をしたいのか分からない以前に、そもそも普段何をしているのか分からない施設というかエリアである。 

www.iwate-np.co.jp

最近、野外音楽堂が開設されたと話題になっていた。あまり使われている印象を受けず(これについては陸前高田市が国の金を使って作ったありとあらゆる施設全般についても同様のことが言えるが)、上場している一営利企業の関連会社として、どうしていきたいのか気になる。誰か株主総会で訊いてみて欲しい。

尚、キャンプ場所の提供も行っている。スノーピークと丸被りである。ただ陸前高田市には他にもキャンプ場があるので、キャンプ場が非常に好きな地域くらいの認識を持っても良いのかもしれない。

キャンプが賑わっている話はあまり聞いたことがないが、今回スノーピークが運営を担うことになったキャンプ場については、そこそこ人気のあった施設であった。

 

また、陸前高田市千葉ロッテマリーンズの佐々木朗希氏が生まれた土地である。大船渡高等学校に通っていたことから、佐々木朗希=大船渡市と思われている節があるが、出生の地は陸前高田市である。

news.tv-asahi.co.jp

この数年は花火大会に力を入れている。

www.city.rikuzentakata.iwate.jp

一体いつまで継続できるか分からないものであるが、近隣の自治体が本花火大会による集客のおこぼれをあてにしているくらいには、実施の必要性を感じられている催しではある。

東北の辺鄙な田舎のキャンプ場を運営するなんてスノーピークは大丈夫なのか

陸前高田市と聞いてもピンとくる人間は少なかろうし、岩手県でキャンプ場の運営と聞いて儲かりそうだと思う人間も少ないだろう。ましてキャンプブームは既に死に体である。今更田舎でキャンプ場の運営など行って、スノーピークは大丈夫なのかと心配する声は一定あるのでないかと感じる。

実際のところ、9月23日にオープンして、滅茶苦茶賑わったような印象を受けていない。キャンプブームどころかキャンプの旬である夏すら終わっている時期なのだから仕方ない。まして、交通利便性が壊滅的な場所である。東京に住んでいる人間がイメージするような賑わいが生まれる可能性はゼロに近い。

今日行った際にも、駐車場は恐らく全体の1割埋まっているかどうかくらいであった。来訪したのが日曜の夕方なので、そりゃそうだろうという感じではある。一方で、古くからこの地に住んでいる自分からすれば、日曜の夕方にパチンコ屋でもスーパーでもない店に、しかも若い人々が十数名程度訪れているのは、かなり凄いと感じたのが本音である。

所得が非常に低く、月の手取り額10万円台が普通の地域なので、物がどんどん売れていくなんて様子は流石に見えなかったが、来店者が来ているだけでも十分であるように感じられる。そもそもスノーピークとしても地元の人間が購買層になるとは思っていないように感じる。外からキャンプに訪れた人々が、必要に応じて買ってくれればめっけものくらいな感じでなかろうか。

陸前高田オートキャンプ場施設整備事業 指定管理予定者・設計・施工者選定プロポーザル 結果公表

第一、このキャンプ場の運営は指定管理によるものであり、ある程度の金は岩手県側が工面しているのでなかろうか。

岩手県 - 【プロポーザル】陸前高田オートキャンプ場施設整備事業について(再公募)

実際どれだけの金がスノーピーク側に入るのかは分からないが、公募時点で6億円程度が上限額として設定されていた。そのため、スノーピーク側が何から何まで投じて行う新規事業とは毛色が異なる。そもそも自社事業としてキャンプ場運営を行うことを考えるなら、陸前高田市のような地域を選ぶ可能性はゼロに近かっただろう。商売をするにはあまりに現実性に欠ける。

中期経営計画

そんな地域に共立メンテナンスはドーミーインを建てようとしているが、新型コロナウイルスの影響があったにせよ、これも随分と時間がかかったものである。流石に考え直したかと思ったが、結局建てるらしいのだから恐れ入る。色々と政治的な話もあったのでなかろうか。どれだけ関係があるかは分からないが、共立メンテナンスは、陸前高田市の事務について包括業務委託契約を締結している。

閑話休題。前置きが大分長くなってしまった。それでは、ここから「スノーピーク陸前高田キャンプフィールド」を歩いた感想についてつらつら書いていこうと思う。

キャンプ道具一切不要! 隠れ家的な宿泊体験を楽しめる「スノーピーク陸前高田キャンプフィールド」

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能力不足の上司の下から去ろうとしている

前回の更新から早2ヶ月が経過しようとしていることに驚きを隠せないのだけれど、無駄に忙しい日々を過ごしていると時の流れが速く感じられるもので、そんなものかと思わなくもない。

 

rotic.hatenablog.com

 

ちなみに前回の更新がこれである。このおよそ2ヶ月間も相変わらず消耗の日々が続いたわけだけど、最終的に所属部門を変える形で話が進んでいる。それがいつになるのか定かでないけれど、恐らく年内には今の部門と職務のすべてが大きく変わる形になると思われる。

元々、希望を出した後に面接のようなものを行い、適性や希望先の部門で求められるロールを担うだけの素地や根拠を認められれば異動できる会社ではあるけれど、今回はそうした通例を経ずに異動が決まった。

自分としては、こうしたパスがあったのかと思うと同時に、ある種特例と言えなくもない今回の話が罷り通ったことで、組織内に負の影響が生じないのか気になりはする。とりわけ今所属している部門において、自分同様の不満を持っている同僚は多く、異動できるものならばしたい人間は少なくない。

そうした人々にとって、今回の件は様々な想いを抱かせるものになるのでなかろうか。このような懸念があるため、単純なキャリアチェンジと組織変更に伴うものといった体裁を取る形で進めることを部門長と議論している。

それはそれとして、本件異動に伴い生じた議論を通じて、今自分が所属している部門に対する外からの評価のようなものが見えており、仮に同僚が自分と同じ状況に至ったとき、同僚も自分同様に取り扱われるかは怪しいのだと感じた。皆、頑張ってはいるのだが、外からの視線は想像以上に厳しいためである。

 

何だかもったいぶった書き方になってしまい申し訳ない。この2ヶ月で何があったか? 簡単に言えば、転職を切り出したら社内にて想定外の反響があり、結果的に社内異動に収まった。それだけである。想定外だったのは、社長を含む役員複数人に加えて他部署部長より直接オファーを頂く形となったことである。

海外の大手コンシューマー向けプロダクト企業から内定をもらう→部門長に退職の打診・退職により影響が及ぶ部門の長に報告→役員との臨時面談→役員との議論→所属部門長との面談→役員・他部門長等との面談→異動確定といった流れがここ1ヶ月以内で生じた。

正直なところ、多少の引き留めはあると思ったが、役員が時間を取って直接打診してくると思っていなかったので、何だか少し申し訳ない気持ちになった。最終的に役員直轄部署、新規創設部門、ビジネス部門の何処か、3以上の選択肢の中から選ぶ形となった。

自分はこの1年半程度、完全なジョブ型雇用に近い仕事を行っており、言うなれば他部門の業務には関与しない狭い範囲のルーティン業務を続けており、ましてその内容がHRの極一部という誰でもできる業務だったため、役員・部長陣より労畜ならば大体の部門が喜んで迎えると評価されていたことには驚くばかりだった。

現在の部門長よりかねてから社内評価は高いと伝えられていたが、リップサービス程度のものだろうと思っていたところ、今回直接社長・役員・部長陣から伝えられたことで、それが真実だったことを知ることとなった。若干、部門長を疑っていたことについては申し訳なさを感じるとともに反省している(いやさ、部門長を嫌っていたわけではないのだけど)。

 

さて、そんな自分の話は至極どうでも良いとして、今回の一件を通じて、外からの所属部門に対する評価のようなものを度々伝えられており、嗚呼やはりそう見えるかと思う瞬間が多かった。誰もが口に出さないだけで不満を抱えているとはよく言ったもので、奇しくも離れるときになってそれが可視化された形である。

 

所属部門は、内部的に努力しており、成績としても悪くないと思っており、確かに自分自身各々が努力しているのは目の当たりにしているため理解できているが、一方で常々業務の進め方について温さ緩さを感じていた。また、役割分担が明確でなく、その点についてマネージャー側がそれを自身の狭い了見に基づく根拠のない良策と考えており、組織として動けていなかった。

その点について自分の方は度々指摘していたが、(当該狭い了見に基づく根拠のない良策だと考える思考により)理解を得ることができず、それが自分の仕事の進め難さに繋がっていたのが現状である(それでも無理矢理数字は出し続けた)。そうした状態について、当人は勿論として同僚も日常として受け入れていたが、やはり外から見て部門として機能しているように見られていなかったようである。

自分同様、役員・他部門長等からしてもマネージャーはあまりに能力不足で(マネージャー主導のミーティングが無駄と言われたのは笑った)、組織としてバリューが不足しており、個の業務に対する意識が低いと感じられていたようで、ある種自分が異質な存在として認識されるに至っていたようである。

個人的には、そう思っていたならば直接言ってくれよ(そうしてくれていたら少しはマシな組織に改善された可能性はあったかもしれない)と思わなくもなかったが、一方で言うのも怠いだろうしなあと思わなくもなかったので、一定の共感はできた(実際に言っても無駄だったわけで)。

一方で、会社という組織で考えたとき、そうしたバリューのない組織にコストを投じる合理性はなく、果たしてこの会社は今後もこの組織を放置し続けるのだろうかと疑問を禁じ得ない。自分自身は離れるので最早どうでも良いと感じる面はあるにせよ、バリューを出せないHR部門の放置は、組織的に良くないのは考えるまでもない話であり、今後問題化していくのだろうと憂鬱な気分になる。

 

そんな会社に残留する意思決定で良かったのか? と疑問を感じなくもないが、一方でオファー内容は内容で魅力的であったものの安寧の色が濃く、またアップサイドのない提案であったため悩ましかった面があり、今後を考えたとき現職における新たなポジションを勤め上げる方が、より自分にとってバリューがあると考えた。実際、そうなのだと思う。

所属先のネームバリューという面での差は大きく、この点は覆しようがないところだが、恐らく自分は最終的に個人事業主として専業の道に戻るだろうと考えており、であるならばネームバリューの点は妥協できると判断した(それが影響する事業を営むことはないと思われるため)。

新しい仕事がいつからになるのか定かでなく、この選択がもたらす結果がどうなるのか知る由もないが、今より多少はマシな状況になることを願ってやまない。それにしてもまあ、この数ヶ月、転職は難しいなあと思った期間であった。


限りある時間の使い方