我々は高齢化を甘く見すぎていないだろうか
少子高齢化がのっぴきならない話題になって久しいが、話題になる割にはどうにも危機感らしい危機感がなく、世代間対立の煽動や社会保障費といった金の話に終始しがちである。表面的な話に囚われ、お気持ちに駆られて騒ぐだけ騒ぐ様子は日本人らしいと言えば日本人らしいのだけど、どうせ将来を悲観して騒ぐのであれば、もう少し自身を取り巻く環境の未来というものについて目を向けながら、冷静に刻一刻と迫る未来について思慮してはどうかと思わなくない。
今年に入り、空き家に関わったり、地域活動に関わったりと、これまで余り関わりを持っていなかったというか、いっそ避けていた身近な世界との接点を増やしている。もっともその結果得られたものと言えば徒労感や金銭的・時間的な損失といった負ばかりであるけれど、そういうものかと思いはするし、関わらなければ身を以て知られなかった内容なので、ある種、この損失規模くらいで学べたのだから、それはそれで好かったかもしれないと思いもする。
さて、そんな日々を送る中、度々抱いた感想は、「年寄りしかいない」だ。何処に行っても、誰から話を聴いても、何を依頼しても、そこで出会うのは60代、70代、80代の高齢者たちである。現役世代は日中仕事に出ているのだから、それは当然であり、サンプルバイアスのようなものだと思われるかもしれないけれど、ちらりと触れた通り、依頼してやって来た業者の人々も、その多くが高齢者なのだ。
高齢者数や高齢化率などに鑑みれば、東京都内とて高齢者は非常に多く、何なら地方よりも高齢化の影響は大きく受ける地域が少なくないのだけど、さりとて東京都内であれば、依頼して現れる業者の人々が高齢者ばかりとはならないだろう。この点は、若年者が著しく少なく、働き手を高齢者に依存するよりなくなっている地方ならではでないかと思われる。
見方によっては、地方にはそれだけ元気な高齢者が多いと言えるし、年金に依存しない高齢者が多いとも言えるのだけど、目線を未来に向けるとぞっとする状況である。何せ、運送や電気・水道・ガス、土木・建築、小売といった人々の生活に密接に関わっている仕事の多く、というよりほとんどが高齢者のお陰で成り立っているのである。これが意味するのは、10年後、20年後には、滅びが待っているということだ。
どれだけテクノロジーが発展しようと、肉体労働を完全に代替してくれない限り、人間の仕事が事業を維持するのに必要となる(もっともテクノロジーは安価に利用できるものでないため、いくら発展しようと使われない、あるいは使えない可能性は高い)。つまり、人間が居なければ事業そのものが消失してしまう。需要があれば誰かがやる、と言いたくなる気持ちはあるけれど、そもそもやる人間が居ないのだから、消滅以外の選択肢がない。
昨今、自治体の財源の問題で生活インフラの維持が困難になってきているという話題がある。これについては、住民が意識して、現在の好き勝手辺鄙な場所に住んでいる状態を改めて一所に固まって住むようになっていけば、少なくとも維持費用を抑えられるようになるため、ある程度困難度は下がるわけだけど、肝心の生活インフラを支える人間が居ないのは、どうにもならない。
何せ先述したように、運送や電気・水道・ガス、土木・建築を担っている業者で働く人々の大半が高齢者なのだ。10年後、20年後の世界で、現役な人々は恐らくそう多くない。労畜が見た中だと、特に大工の数が厳しい。建築士は腐る程いるのに、大工がほとんどいない。建築士は若者も少なくない数が見られるけれど、大工は大半が50代以上。50代でさえ若い方である。10年後に家を建てられる職人は、一体どれだけ存在しているのだろうか。
似たような状況が、土木にも存在しているし、電気・水道・ガスといった設備、そして運送にも言える。大工に比べればいくらかマシというだけで、危機的状況にあるのは何ら変わらない。もちろん、高齢化だけがこうした問題を生んでいるわけでないのは間違いないだろう。「コンクリートから人へ」などと血迷った脳無し政策を打ち出した旧・民主党がもたらした災厄の帰結とも言えるのは想像に難くない。肉体労働を蔑む社会のインテリ化も、こうした悲惨な状況を生み出した要因の一つだろう。
いずれにせよ、人々の生活を支える生活インフラと呼ぶべき仕事に従事しているのが高齢者ばかりになっており、10年後、20年後の世界で生活を成り立たせられるかが極めて疑わしい状況にあるのは疑いようもない。もちろん、医療とて多分に漏れず、高齢化が著しい。医師はもちろん、看護師の確保もままならなくなっている。60代・70代の看護師が現役だ。
地域との接点を増やしたこの半年、接点が増えれば増えるほど、高齢化の恐ろしさを感じる。高齢化とは絶滅の道を歩むことだと実感するのだ。承継がままならずに途絶えていった伝統芸能のように、今後は生活インフラが絶滅の道を辿っていく。そんな馬鹿な話があるかと言いたくなる気持ちは察するし、労畜とてそう言いたいが、さりとて生活インフラを支えてくれる業者の人々が消えていくのだから、決して非現実的な話ではない。
こうした状況は、これから子供が増えたところで、どうすることもできないことではある。むしろ一気に子供が増えたところで、今度は子供を育むインフラの整備が問題になるだろう。どちらかと言えば、辺鄙な場所に住んでいる人々を中心市街地に集めて、支え合いやすい街にしていくなど、様々なものをシュリンクさせ、あらゆる負荷を下げていくことを優先した方が良い。何せ、高齢化によって様々なものが絶滅していくのは確定路線だ。生まれるかどうか分からない子供の存在は不確定に過ぎる。
少子高齢化と警告音が鳴り響く割に、我々はそれによって迫っている未来に対する危機感が薄いように感じる。政治にも危機感が余りにも足りていない。世代間対立を叫びながら自己満足のままごとをしている場合ではない。今まさに、我々の生活が成り立たなくなっていっている。生存権の確保が侵されていっているのだ。
高齢化によって、我々を取り巻く環境が現実にどのように変化し、どれだけ生活が成り立たなくなっていくのか、そうした確実に迫っている危機をイメージしなければならないと感じる。政治もそうした危機的な未来を共有し、今ある地域や国民の暮らしを具体的にどのように変えていかなければならないのか、くだらない政治ごっこでも利己的な主張でもなく、適切に現実を語り、国民に行動や思考を促すべきだろう。
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2050 老人大国の現実―超高齢化・人口減少社会での社会システムデザインを考える
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独身で生き続ける自信がないなら結婚した方が好い
パンを銜えたままコーナリングを駆け抜けた先でぶつかった男に感じるようなドキドキではなく、もう少し生命の根源的な恐怖に直面したときに感じるようなドキドキの話になるのだけれど、6月に入り、ブームから4-5年越しくらいに初めて新型コロナウイルスなるものに感染した折、高熱に浮かされる中にあって『自分はこの先、独りで生き続けられるのだろうか』とドキドキして胸や頭どころか前身が熱くなった。まあ、新型コロナウイルスによる影響で高まった体温、激化した動機が原因だったりするので、恐怖色に染まったドキドキかさえ怪しいという、何とも不誠実で曖昧な話ではあるにせよ。
それはそれとして、折しも世の中は『出生数過去最低』だの『未婚率上昇』だのが叫ばれる独身生活が当たり前の世界に向かっているかのような状況だ。結婚願望そのものが消えていっているとは思わないにせよ、Twitterを見ればやれ『年収XXX万円以上でなければダメだ』だの『〇〇の家事をしない人間はダメだ』だの単なる個々人の好き嫌いがさも法律かのように騒がれ、また現実世界を見れば『結婚式費用は〇〇円』だの『結婚後の生活をする住居確保必要な資金は〇〇円』だのと人々を結婚から遠ざけるような数字が並ぶ有り様で、一体全体どんな人間が結婚しようと思えるのかみたいな世の中になっている。
国の未来を憂いて結婚する人を増やそうと真面目に動いているのは、下手したら行政くらいでなかろうか。誰も彼もが国の未来がかかっているこの自分事でもある問題に対して、足を引っ張り続けている。自ら種を絶やそうと齷齪するなど、人間とは何と愚かな生き物だろうか、などといった蔑みが飛び交いそうな昨今に在って、多くの人々がこの惨状に疑問を抱かないのも不思議としか言いようがない。どう考えても、多くの人々が結婚の素晴らしさを語り、結婚した人々を支え合うような状況になっていかないとならないフェーズなのに、真逆の道を突き進んでいる。
それはそれとして、労畜自身が未婚だから言うわけでないけれど、結婚自体は当然個々人の判断の下で行われるものでしかなく、だから結婚しようが結婚しまいが、どちらでも構わないと思っているし、そう在るべきだと思っている。他人の人生の選択なんぞに誰も責任を取れないのだから、自身の人生をどうするかなど、各人自身で決めるべきである。国が何と言おうと、親類縁者が何と言おうと関係ない。自分自身の選択を何よりも尊重すべきである。
一方で、結婚した方が好いか、結婚しない方が好いかで考えると、労畜的には『結婚できるならした方が好いと思うし、わずかでも結婚したいと思うならした方が好いし、将来に不安があるなら確実にした方が好い』と考える。理由は単純で、人間は独りで生き続けられはすると思うけれど、それには多額の金が要るし、生き続けられたとしても独りで死ぬのが存外難しいためだ。最も死については、死んだ後の事など知らんと突っぱねられればそれで問題ないと思わなくない。実際問題、独身であれば自身の死んだ後の事など考えても仕方ないのである。
問題は、生存だ。労畜が4-5年遅れくらいで感染した新型コロナウイルスだけど、全世界的に騒動になっていた誰もが不安を抱えながら生活していた頃、独り暮らしをしていた人々の中で他者の存在を求める傾向が生じたのは有名な話である。閉鎖的な部屋で生活を余儀なくされた影響、対面での他者との交流の一切が遮断された影響も多分にあろうけれど、そこにはやはり生命の根源的な欲求があったのでないかと推察される。雑に言えば、『自分が病に倒れたとき、助けてくれる人が誰もいない、何なら気付いてくれる人さえいない、誰か一人でも居れば助かるかもしれないのに、誰もいないから自分は死ぬしかない』という恐怖である。
現実問題、独り、誰にも気付かれずに、必要な処置を行えずに死んで行った人々がそれなりに居たと思われるし、新型コロナウイルスに限らずとも高齢独居者の死亡例の中にはそうした事例が見られる。と言おうか高齢でなくともそうした事例は少なくない。災害時においても、やはり近くに親類縁者が居る者と居ない者とでは、無事で居られる可能性はそれなりに下がると見られる。そこに居ると知る方法がなければ、救助されるまでにかかる時間が延びるためだ。
人間に限った話ではないと思うが、独りは脆弱である。病気にしても災害にしても、肉体を鍛えておけば問題を最小化できるという考えがあるかもしれない。それは一定事実だろうし、そもそも健康で安全な日々を送っている多くの人々にとって、日頃イメージしにくい話ではある。そのため、もう少し日常的な話で、分かりやすい話をつらつらと書きたい。
結婚するには年収が必要と語る人間が多く見られるし、ブライダル業界なんかは高い結婚式を売るために結婚に金が必要であるかのような印象を与えるが、結婚それ自体に金はあまり必要ない。冷静に考えて、紙一枚出すのに、大金が必要なわけがない。大金が必要になるのは、見栄やプライドを満たしたいときくらいである。
それどころか、よほど散財癖のある人間と結婚しない限り、結婚すれば生活費が多少抑えられる。生活費の多くを占める不動産賃貸料なんかは都市部であればあるほど劇的に抑えられるのでなかろうか。つまり、結婚した方が余力が生まれる。その余力を資産形成なり、自分磨きなりに使えば、更に余力を増やせる可能性が高い。
富裕層になる上で重要な要素の一つに結婚が挙げられるケースが少なくない。結婚することで資産を大きく増やせるようになるという話だ。金がないと結婚できないと語る人間とは、ある意味真逆の話である。理由は単純で、独身で居る限り、稼ぎは自分一人のできる範囲に止まる。だから独りで大きく稼ごうと思ったら、資産運用をしたり、事業を創って他人に働いてもらったりするしかない。ところが結婚すれば、稼ぎは二人分になる。資産を運用せずとも、事業を創らずとも、人間一人分の稼ぎが増えるのだ。それでいて出費は二倍にはならない。
資産を運用するにも、事業を創って他人を働かせるにもそれなりの元手が必要になる。しかし結婚には大きな元手は必要ない。だからこそ富裕層になりたければ結婚が一つ大きな要素になる。ところが今の日本は、富裕層にならなければ結婚できないかのような言説が罷り通っている。真逆であるのはもちろん、賃金の低い日本では多くの人が貧しいまま老い衰えて困窮する方向にしか進まない。
あまり現金な話にするのは躊躇うが、子供についても似たような話があるのだと思う。結婚には然程金が必要ない一方で、子育てには金がかかる。なので、子供が贅沢品という昨今の言説は、ある意味で正しい(もっとも昔に比べて支援が数多く用意されている昨今と支援がまるでなかった昔を比較して子供が贅沢品かは、議論の余地があるとおもうけれど)。しかしながら、子供が贅沢品だとして、それは消耗品だろうか? そんなわけはない。
子供については、投資だろう。一人の人間と一人の人間が結婚し、互いの稼得で蓄えた金を投じて行う人生で最も大きな投資でなかろうか。何せ、子供が社会に出れば、子供の数だけ収入口が増えるのである。老後、働けなくなった後の自分達の生活を支える保険にもなる。恐らくこの構造が、本来の家族の相互扶助の在り方で、これがちゃんと構築できる人生設計を行うのが、より好い人生を送る上で重要なのだろう。社会で支える年金に頼るよりも健全な人生設計であるし、これがしっかり回る限り、本来過度な社会保障は不要な筈である。
ところが、それが様々な要素というか人々のお気持ちで機能不全になっている。声が大きいだけの馬鹿達の不平不満によって社会が狂い、支え合いが重要な家庭において片方に寄りかかろうとする寄生心が増長して家庭が狂っている。気付けば独身こそがとても良いものであるのかように思われる始末である。独身の問題点も適切に語られるならばまだ救いはあるが、どうにもそんな気配がない。結婚を推奨している筈の国でさえ、独身で居続けるリスクをあまり声高に主張しない。
冒頭の話に戻るが、独り高熱に浮かされる時間を過ごす中で、『自分はこの先、独りで生き続けられるのだろうか』と強く感じた。独り暮らしで病気になると寂しさが強まるとは言うけれど、寂しさというより身の危険を感じたわけだ。独身は確かに気軽だし、結婚するよりも面倒がないのだと思う。一方で、日々老いて衰え、今日できたことを一年後にはできなくなっている現実がある中で、非常にリスクの高い生き方だと思う。
何も『自分が病気になったとき助けてくれる存在として伴侶を作った方が好い』なんて、伴侶=世話役のような話をしているわけでない。『お互いに支え合える人間を一人でも多く作った方が好い』という意味の話をしている。そしてそのお互いに支え合える人間は、恐らく家族が最も適しているというか、作りやすい存在でないかと思うのである。
もちろん生涯を共にする友人や知人でも好かろうし、そうした事業者のところで生活できるなら構わない。けれど、独りで生き続けることに不安があるのであれば、恐らく結婚を考えた方が好いのでないかと労畜は思うわけである。まあ、そんな話をしている労畜は、既に病人の身であり、結婚なぞ望むのも難しい身ではあるのだけど。独り、病気の身で生き続けるのは、中々どうして悩ましいものである。
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38歳バツイチ独身女がマッチングアプリをやってみた結果日記 (幻冬舎単行本)
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休むことへの抵抗がなくなる方が好い
休むことに抵抗がなくなる社会になった方が好いと感じている。
自身の体調が悪くなったとき、家族の体調が悪くなったとき、所用ができたとき、理由は犯罪を行ったり不法行為を働いたりする以外であれば何でも良いと思うが、とにかく休むことに抵抗を覚えずに休める方が好い。休む対象は、学校や仕事、その他行事など、何であれである。
仕事を休むと誰か他の人々に皺寄せが生じるだろうし、学校を休めば後で自分が苦しくなるであろう。それでも何ら気にせずに休む。それが当たり前になった方が、恐らく社会の幸福度は上がるのでなかろうか。もっとも休まれた側が不幸になるならば、社会全体での幸不幸はバランスしてしまい、幸福度が上がるとは言えないのかもしれないけれど、何らかの形で休まれた側の不幸度合いを下げられるならば、そうした点も杞憂に終えられる可能性はある。
昔、産休から明けた女性が、子供の急な発熱で帰らざるを得なくなったとき、何度も何度もこちらに謝罪する様子を目の当たりにした。目の当たりにしたも何も、謝罪されているのはこちらなわけだけれど。こちらとしては取り立てて気にならず、寧ろ何度も謝罪される方が居心地が悪くて仕方なかったわけだけれど、だから気にしなくて良いと何度も何度も説明したわけだけれど、結局謝罪は止むことがなかった。
それは当人の性格と言おうか性質によるところが多分にあったと思われる。一方で、世の中的に休む・早退きに対して余り好意的ではない時代が長かったこと、そもそも学校教育なんかでは休暇にしても早退にしてもイレギュラーのような扱いだったことを思えば、そうした背景を持ちながら生きてきた人間にとって、たとえのっぴきならない事情であっても休む・早退きについて、謝罪という行動が出てくるのは自然なのだろうとも思った。
そう思いつつ、流石に何度も何度も謝罪の言葉を繰り返されると、大丈夫だろうかと心配にさえなってくるわけである。急病に見舞われた子供よりも、今から迎えに行こうとしている母親の方が壊れてしまいそうで、子供と同程度には自分自身も大切にした方が良いのでないかと思わずにいられず、とはいえそんな言葉を並べたところで何がどうなるでもないので、その場は同僚を送り出すに留めたのを覚えている。
そんな出来事があったこと、また自分自身が健康体ではなくなったことから、休みやすさというものが気になることが増えた。また世の中を見渡してみると、様々な事情を抱え、休めないと辛い状況に置かれながらも休むことに躊躇いを覚え、その結果より状況や状態を悪化させてしまっている人々も少なくない数が見られる。こうした事態を避けるには、やはり休むことへの抵抗を失くし、罪悪感を持たなくなるようにする必要があるように感じる。
とは言ったものの、ではどうすれば休むことへの抵抗を失くせるのか、その具体的な解消策、解決策は何か、というと全く思い当たらない。究極的には本人が気にせず休むマインドを持つになると思われるが、それができないから困っている人々が多いのである。では本人が気にせず休めるように、周囲が常日頃から声がけをすれば良いだろうか。これについては、現代ならば既に取り組まれているケースが多いのでなかろうか。
何せ、法律や制度で義務付けられてさえいるのである。それにもかかわらず気にせず休めるようになっていない。仕事の状況や人間関係など様々な要因はあろうけれど、どうしたところで最終的に本人の心の持ち様に帰結するようにも思えてくる。周囲にできることが全くないとは思わないにせよ、周囲にできることにも限界がある。もちろん本人が自身のマインドを変えようとするのにも限界がある。
休むことへの抵抗をどうすれば消せるのだろうか。その答えを未尚探し続けている。
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マスコミが不適切な情報を報道し続ける岩手県大船渡市の山火事についての情報を時系列でまとめておく
大船渡市で2025年2月19日から続いていた山火事について、そろそろ落ち着いてきたように見えるので、労畜も幾らかまとめておこうと思わなくない。東日本大震災に続いてまさか自分が火中と言わないまでも渦中の人間になるとは思ってもみなかった。渦中と言おうか禍中と言いたくなる状況ではあるのだけど。ちなみに禍中は一般的に誤用である。
ちょっと見てきたけど、今年、岩手でというか、全国でも最大規模の火事になるのでなかろうか。
— ろうちく🔰労畜 (@rebreb01541) 2025年2月20日
昨日から燃えていて、鎮まる気配が全くない。山も住宅地もすべて焼き払う勢い()
←昨日
今→ pic.twitter.com/2ttQpSb1HI
大船渡市で発生した山火事について、最初に呟いたのは恐らくこれでなかろうか。以降、2月28日までツリーが繋がっている。本当は今に至るまでツリーを繋げているつもりだったが、気付いたら分岐していた。ある事案についてツリーを繋げ続けるのは存外難しいと思った。
本ブログは、そうしたツリーを上手く繋げられなかったことを受けて、まとめようと思い作成したものである。文章化するにあたっては、ツイートからこぼれていた情報も入れ込みながらまとめているが、概ねツイートを遡れば読める内容である。加えて、同様の内容が以下のnoteにまとまっており、無料部分で情報を辿れる。そのため、本ブログは有料としている。
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報道されている情報よりも適切な内容で岩手県大船渡市の山火事について時系列で情報を整理する
死ぬくらいしか選択肢がなかった時期、クラウドワークスに助けられた話
今週のお題「10年前の自分」
時間の流れは早いもので、どうやら個人事業主になって10年が経ったらしい。病気を患い、社会生活の多くを行えなくなったのが大体11年~12年前だろうか。その頃は今と比べて遥かに生活を維持するのに必要な金が少なかったので、貧乏な家であったが両親に支えてもらう形を取れた。と言いたいところではあるけれど、その後数年、知らず親が繰り返し利用していた得体の知れない複数のクレジットカードローンや元々抱えていた借金の山を前に何度となく破産を打診する数年を過ごしたことを思い返せば、大分無理が生じていたと言わざるを得ない。
貧しい人間ほど金の管理能力が貧しく、何度痛い目を見ようと何ら改善に向かうことはないと身をもって理解したのもその頃である。ただでさえ病気で自身の精神を保つのに苦労していた時期に、そうした状況に置かれた日々は、今思い返しても鬱屈とした気分になる。もっともそのクレジットカードローンと借金の問題は幾分鎮静化した一方で、相変わらず金の管理一つできないのは前述の通りなので、今なお親を起因とした金の問題には度々ぶつかっている。親だけならばまだしも兄弟も大差ないのだから、家族揃って馬鹿ばかりと言わざるを得ず、労畜の死後、これらの人々には一銭たりとも相続したくないと思わずにいられない。
さて、冒頭の話に戻ると、10年前と言えば個人事業主になりたての頃である。満足に働けなくなった時分、親に食わせてもらわざるを得なくなった一方で、親の金銭能力のなさ自体は理解していた。何せ貧しい家である。そこそこの大学に行けた実績を持ちながら半ば進学を諦めた身なので、そんな食わせてもらう期間は長く持たないと思っていたし、長く続けてはならないと思っていた。だからこそ、体調が悪化の一途を辿ったわけだが、とはいえある種そうしたこの身が危機的状況に陥った中で置かれた危機的な環境のお陰で、金を稼がなければならないと満足に動けない状態ながらも行動できたと言える。そして、その時分に行動できたからこそ今がある。
一企業としてクラウドワークスを素晴らしい会社だとは思わないけれど、当時の労畜と言おうか、労畜の人生にある種の救いを与えてくれたのは、間違いなくクラウドワークスである。ランサーズも使いはしていたが、ランサーズは忖度なしに言って金を稼げるサービスではなかった。崇高な理念を掲げ、利用者を代弁するかのような振る舞いをしていたけれど、はっきり言って利用者にとって大きな益が出るような中身でなかった。今尚業績が奮っていると言えないのは、さもありなんと言った印象である。
労畜はクラウドワークスにもランサーズにも投資しようと思わないけれど、例えばPLの成長という観点だけで考えれば、間違いなくクラウドワークスの方が優れていると感じる。「クラウドワークスは、発注案件の報酬単価が極めて低いから稼げない」、「クラウドワークスは受注者の便益を軽んじている」などといった声が昔から声高に叫ばれているし、それ自体は労畜も思いはするけれど、結局のところ重要なのは単価より一定の期間で総額どれだけ稼げるかである。その点において、金を稼ぐためにしっかりとコミットする人間からすれば、クラウドワークスは金を稼げるサービスであり、ランサーズは金を稼げないサービスだった。そしてそれは、両者の売上の差に直結する。
もっともクラウドワークスが成長しているのはM&Aを上手くやって来られたからであって、クラウドソーシング事業単体を見ればランサーズと言う程には違わないだろうといった話もあろう。仮にそうだとしても、ビジネス面においてユーザーがより金を稼げるプラットフォームを創り出す力の差があるかどうかは、結局のところトータルで見たときにも差として生じるわけで、寧ろ昔からその点に力を持っていたからこそクラウドワークスは今尚手を変え品を変え成長できており、ランサーズは余りパッとしていないという結果の差が分かれているのでないかと思いはする。
労畜は、両者ともに消えると思っていたわけだけど。取り分け生成AIが登場して以降は、着実に死んでいくサービスだと思っていた。蓋を開けてみたら、案外そうでもなく、寧ろ生成AIが登場したからこその発注が見られていて、そうか、世の中なんてそんなものかなどと思いはしている。総量としては間違いなく減っていっているのだとは思うにせよ。
また話を戻すと、社会生活一つ満足に行えなくなり、半ば自暴自棄になっていた当時の労畜にとって、金を稼ぐという目的は悪くない気晴らしになったし、社会復帰の芽を得る上で重要な存在になった。読者の多くは今一想像できないと思うけれど、たった1円を稼げることに喜びや救い、希望を感じるなんて瞬間がその時分、確かに在った。その1円が10円になり、100円になる。100円の仕事を100件やれば10,000円になる。そんな細やかな積み重ねが、当時の労畜にとってはどうしようもなくありがたかった。
何せ、言葉一つにろくに話せず、他者との会話なんてしようものなら死にたくなるほどに体調がイカれるような時分だ。声も対面コミュニケーションも一切せずに、ただ黙々と作業を積み重ねれば金が積み上がっていく状況にはありがたさしかなかった。時代に恵まれたし、テクノロジーに救われた。心からそう思っていた。不満がなかったと言えば嘘になるけれど、それでもそうした機会を得られる場を提供してくているクラウドワークスには感謝するばかりだった。一応ランサーズに対してもである(とはいえ、ランサーズには見切りをつけていた面があり、あまり使わなかった)。
当時は、仕事ならば何でもやった。仕事をすればするほどに次の仕事が舞い込んでくる。気付けばクラウドワークスで出会ったクライアントから別のクライアントを紹介されて発注先が増え、10社程度のクライアントを掛け持つような状況になった。最終的に1社を中心に空き時間で数社対応する形に落ち着けたが、仕事が途絶えない状況が続いたことは、救いになった。もっとも仕事ならば何でもやったため、受注の過程で多くの詐欺師を見る機会に遭遇しており、仕事以外に時間が消えることも少なからずあった。幸いその手の連中、連中の手口については予め読み解ける程度のリテラシーを持っていたので躱せていたが、一方で見なくても良い世界を垣間見たのは事実で、それが良かったのか悪かったのかは何とも言えないものがあった。
3-4年目くらいからは、地元企業に雇用されるよりも遥かに多くの所得を稼げるようになり、お陰で貯蓄も僅かであるが貯まり、生活面は確保された。10年前、稼ぎ出した頃には想像も出来なかった生活面の安定を獲得できたのだ。それは当時の環境があってのものだし、クライアントに恵まれたためであるし、とりわけ昨今のマーケットの環境を見るに再現するのは困難に思えるので、運が良かったと言える。もっとも不安定な体調を抱えながら朝起きてから深夜眠りに就くまでの大半の時間を仕事に費やした労働量があって、初めて成し得た結果ではある。
新型コロナウイルスの騒動があって、仕事量自体に大きな減少はなかったものの、環境の変化からか稼ぎ方、あるいはクライアントを変える必要があり、迷い悩んで便チャーに席を置いたのが良い選択だったかどうかは未だ評価に悩むものの、さりとてそのお陰で選択肢が広がった面はあるので、機会があれば取り敢えず乗っておくのが大事なのだろうと思いはする。思えば遠くまで来たものだと言えるほどに、別の世界に辿り着いたわけでないにせよ、死ぬくらいしか選択肢が思い浮かばなかった11-12年前。何とか1円ずつから稼ぎを積み個人事業主へと歩み始めた10年前の兎に角苦しかった時期を思い返せば、随分と気持ち楽な状況に至れたと思う。
体調は未だ不安定で、病気は一向に治る気配を見せず、予断を許さない状態ではあるにしても、当時の頃に戻らないように、少しずつ色々なものを積み重ねていきたいものである。これを書いている間に月が変わってしまったので、2025年最初の更新が2月になってしまった。去年、もう少し何とかしたいと書いた気がしないでもない中、結局ほとんど書けなかったけれど、何だか今年も更新回数は少なく推移しそうな予感がする。もっとも昨年の記事作成総数自体は、200件を超え、兼業ライターである点に鑑みれば、その制作本数はかなりのものだと思うのだけれども。
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ハゲを生み出すための数少ない方法
今週のお題「2024こんな年だった・2025こんな年にしたい」
気付けば一年が終わっていたなんて言葉を毎年のように口にしては過ぎ去った日々に思いを馳せ、なんと無意味な時間を過ごしたものかと思うなどするのだけど、どれだけ意味の無い時間を過ごそうと虚無的な時間を重ねようと、時間が色を持たないばかりに、無情にも、非情にも、また一つ年を重ねては自分が老いた事実に打ちひしがれる。さりとて、自身が老いる事実にそれ以上の意味を見出せない面はあり、打ちひしがれると言っても然程深刻な形ではなく、溜息一つついて消えるような意気消沈、息消沈でしかない。翻せば、その程度の情動しか得られないからこそ、無為な時間を積み重ねていると言えるのかもしれない。中々どうして難しく、生半どうしようもなく悩ましい。
さて、いくらか唐突ではあるけれど、はてなブログのテーマに沿った話をするとして、一先ず2024年に購入して良かった物について書こうと思う。果たしてはてなブログのテーマに沿っているのか疑問に感じる向きもあるかもしれないけれど、どんな年だったかなんて何をして良かっただの、何が起こってどうしたかだの、そんな話をするようなテーマなのだから、何を購入してどうしたのだとか書いたところで、大筋は然程逸脱しないように思う。
2024年:高すぎる禿げ維持コストを下げるべくkensenのスキンヘッドシェーバーを購入した感想を評価を交えて書く
2024年に購入した物の中で最も印象に残っているのは、kensenのスキンヘッド用シェーバーである。労畜は彼是十数年程度ほとんどスキンヘッドに近い坊主にしていて、とりわけ2024年からは床屋に行く都度スキンヘッドをオーダーしているのだけど、経験者は知っての通り、スキンヘッドにしたところで翌日には既に薄っすらと毛の姿が頭皮に現れる始末でスキンヘッド感のある外見は二週間と持たない。持たないというか二週間後には再び床屋に行かないと禿げ散らかった庭園が頭上に出来上がるので、二週間程度のサイクルで床屋のお世話にならなければならなくなる。
岸田文雄が首相在任中、どうして彼奴はあれだけの高頻度で床屋に行っているのかなどと巷で声が上がっていたけれど、一度スキンヘッドを経験すると床屋とは高頻度で訪れるものなのだといった感覚を身につけられるようになると思う。もっとも岸田文雄はスキンヘッドにしていなければ禿げてすらいないので、ならば岸田文雄があれだけ頻繁に床屋に通っていたのは何故なのかと結局疑問は晴れぬまま禿げぬままの岸田文雄を胡乱な目で見てしまうかもしれないけれど。話が少し脱線したので、元に戻すけれど、スキンヘッドを保つために二週間サイクルで床屋に通う状況が、禿げ散らかった頭皮と同程度には悩ましい問題だった。
労畜は、何年何十年勤続しようと年収200万円台が当たり前みたいな世界のクソ田舎に住んでいる人間の中ではそこそこ年収がある方だけれど(さりとて東京圏においては下の下に近い)、一回あたり3,500円程度の剃毛を二週間に一度のサイクルで繰り返すのをノールックで許容できる程には裕福ではない。何せ単純計算すると年間で91,000円程度の消費である。値上げしたうまい棒6,000本以上もの金を禿げた頭の維持に消費するのは、流石にどうかしている。だから、思考は自然と「自分の手で禿げた頭を維持できるようにできないだろうか」といった方向に向かった。
何せ必要なのは頭皮に中途半端に生い茂った短い毛を刈り取ることだ。何もメンズモデルのように繊細な調整を施した髪型を創造したいわけでない。髪型なんて概念が消える頭皮を維持したいだけなのだ。髭を剃るのと何ら変わらない。剃る面積を広げるだけ。鏡一枚見ながらできる行為を鏡二枚なければできない行為に拡張するだけだ。それならば何とかできるのでなかろうか? そう考えてChatGPTではなくGoogle検索に訊いた。すると思いの外見つかるではないか。どうやら二週間のサイクルで床屋に行けない同志は世の中に数多く存在するらしい。そうしてありとあらゆる要素----主に金額を考慮して辿り着いたのが、先ほど紹介したkensenのスキンヘッドシェーバーである。
Kensen のスキンヘッド用シェーバーは明らかに買ってはいけない怪しい商品に見える
分かる人間には分かると思うが、Amazonにおいて「キーワード キーワード キーワード」みたいな商品名になっているものは、99%粗悪な商品か中華製の買ってはいけない商品である。Amazonで商品を探す場合、真っ先に「キーワード キーワード キーワード」みたいな商品名になっている商品を駆除するのが、より良い買い物をするコツと言って良い。Amazon側で対策しろよと思わなくないが、Amazonだって無償でプラットフォームを提供しているわけでない。AmazonにはAmazonの都合がある。
kenenのスキンヘッド用シェーバーは、その意味において明らかに買ったらヤバい代物だった。そもそも見た目がソードアートオンラインで盾に使われそうな奇抜な形である。誰がどう見てもシェーバーにすら見えない。商品名もヤバいのに見た目もヤバいなんて、ほとんど役満に近いのだ。だから、取り合えずGoogleでkensenにまつわる情報を探し回った。結論から言えば、然程役に立たなかった。ますます怪しさを増すだけの哀れな行為に30分もの時間を費やしただけになってしまった。
だが、此奴を手に入れなければ、二週間に一度の3,500円出費が待ち構えている。最終的に背に腹は代えられないと思い、切腹する気持ちでAmazonに購入意思を伝えた。ぶっちゃけ仮に駄目だったとしても7,000円程度の出費で留まるので、勉強代として割り切ろうと自分を納得させた。そのときはAmazonの口コミ欄に大失敗ポエムをつらつらと書き連ねれば良いのである。労畜一人の失敗が全国数千万人いる禿げ予備軍の人々の禿げ維持コストの助けになれるならば望外の喜びだろう。
kensenのスキンヘッド用シェーバーを使ってみた感想と評価
遥か昔にkensenのスキンヘッド用シェーバーは日本の中小企業が製造しているめいた記事を見た記憶があったのだけど、恐らく労畜の記憶違いだった。届いたkensenのスキンヘッド用シェーバーの説明書を手に取りわずか3秒くらいで韓国或いは中国で製造された物であると感じた。もっともOEM若しくはODMのような形で、販売を韓国や中国が担っているのかもしれないけれど。何にせよ、付属されていた説明書は、日本語にこそ対応しているものの不出来なChatGPTが翻訳したような日本語が並ぶ説明書で、最低限の知識は得られるけれど細かい点については知られない内容だった。もっとも単純に説明書を作る技能が足りていなかっただけかもしれない。
とはいえKensenのスキンヘッド用シェーバーの用途など頭皮に群生した髪の毛を剃る程度くらいなものである。シェーバーについているキャップを外してスイッチを押した状態で頭皮に当てれば目的を達せられることが分かれば十分と言える。少々悩んだのは使用後の洗浄である。どこまで流水に触れさせて良いのかが今一分からなかった。最終的にヘッドの部分にはかけても問題なさそうなのがインターネット上の情報で知られたので事なきを得たが、この点は詳細に書いておくべきだろうと思わずにいられない。電気シェーバーにとって、洗浄の重要性は非常に高い点だろう。こういった細部への気配りのなさが日本メーカーとの差に感じられる。日本メーカーの場合は、やり過ぎな所があろうけれども。
さて、肝心の使用感についてだ。ここに至るまでで3,500字もの道のりになっている。ここまで辿り着いた読者はさながら禿げの探究者とでも言うべき気合の入った読者だろう。同志禿のために、労畜も気合いの入った使用感を伝えたいと気を引き締めたくなる思いだ。だが、残念な知らせがある。どれだけ気合を入れて使用感を書こうと思っても、所詮書くべき内容はしっかり禿げ頭をメイキングできたかどうかしかない。つまり、書くべき文章は、「安物の割に思った以上にしっかり禿げさせられた」の一文だ。流石に後頭部や側頭部など、自分の手で剃るからこそ剃りが甘い部分が出る課題はある。しかしながら、この課題はどちらかと言えば労畜の腕の話だ。
奇抜な形状をしているだけあって、しっかりと頭皮に当てられれば思った以上にちゃんと剃れる印象である。一方で、ある程度の深剃りを覚悟した方が良い。一度当てただけでツルンとした頭皮を生み出せる程の切れ味、否、剃れ味はない。何度も何度も当てて漸く剃れるといった印象だ。そこはやはり所詮7,000円程度のシェーバーといった感想である。いっそ、それだけ当てても皮膚に傷がつかない点を褒めるべきかもしれない。ただ、当然ながらT字カミソリなどに比べれば頭皮の形状をカバーしやすく、思ったより剃りやすい印象を受ける。伊達に形状をしていない。おかげで変な角度で手を動かすといった奇抜なポージングを取らなくて済む。
不満点を挙げるとすれば、洗い難さだろうか。刃部分を外して刃と刃を設置する部分を分けて流水で洗うものの毛を上手く取れない。付属のブラシを駆使しても完全には毛を落とし切れない。洗浄技術にもよるだろうが、とはいえ極端な差が出るとも思えない。この洗い難さから、何となくあまり長持ちしないのでなかろうかと一抹の不安を覚える。値段だけ見れば、床屋二回分に満たない金額だ。そう考えれば、元を取るのは容易にも思える。この点は、使用者の金銭感覚や志向性によって評価が分かれるかもしれない。だが、少なくとも買って損した気分にはならないのでなかろうか。
一方で、実際にKensenのスキンヘッド用シェーバーを使って禿げ頭をメイキングして改めて思ったが、一度スキンヘッドにした状態を維持するために禿げ頭をメイキングする行為は、はっきり言って髭を剃る行為とそう大差ない。流石に一度スキンヘッドにしてから二週間以上の時間を経て頭皮が幾分生い茂った状態から禿げ頭をメイキングするのは髭剃りよりも散髪に近い要素が入ってくると思うが、一週間程度の時間経過ならば髭剃りと変わらない。つまり、わざわざ不安な思いを抱いてKensenのスキンヘッド用シェーバーを買わずとも、信頼と実績のあるパナソニックなどのちょっとお高い電気シェーバーを買えば、最終的な費用対効果は高いのでなかろうか。

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当初、坊主にするにはバリカンを使うように、スキンヘッドにするにはスキンヘッド用のシェーバーを買うべきだと考え、スキンヘッド用のシェーバーを中心に探してKensenのスキンヘッド用シェーバーを手にした。だが、電気シェーバーであれば何でも良いのであれば、やはり日本メーカーの物を使った方が、トータルの満足感は高いのでないかと考える。安直に言えば、年間90,000円程度の禿げ予算を削減できれば良いのだ。7,000円程度の評価に悩むシェーバーであっても、30,000円程度の評価の高いシェーバーであっても、元を取るという観点ではどちらもクリアできる筈である。
2024年は、禿げを維持すべくKensenのスキンヘッド用シェーバーを手に取った。2025年は、今回の反省を踏まえ、より一層最適な禿げの維持方法を模索したいと考える。毛根が死滅していく環境において、いかに頭皮中心の景観を維持できるかどうかは大きな課題だ。禿げ散らかった限界集落のような頭を生み出さないため、2025年は改めて禿げを維持する方法について考えていきたい。

触らぬ禿に祟りなし※広告やぞ

スキンヘッドの可能性※広告やぞ
生成AIに銘柄分析・企業解説をさせる:完全在宅勤務方針を転換すると騒がれているLINEヤフー株式会社【4689】
あまりにも株式投資に時間を使わない現状に課題感を感じているので、とりあえず生成AIに有価証券報告書をぶん投げて、その回答を見て、何かやったつもりになろうという連載の3回目である。
第3回は、突如として完全在宅勤務(フルリモートワーク)方針の変更が行われるとして、X(Twitter)で炎上めいた騒ぎが発生しているLINEヤフー株式会社を取り上げる。どうして労務上の問題を引き起こすリスクを発生させてまで完全在宅勤務方針を急転換して、ただでさえ人的資本価値が高騰しているITエンジニアを手放そうとしているのか、有価証券報告書の内容を見てみたい。
ちなみに、制作時はChatGPTに追加されていたプロジェクトという機能を使った。明らかに使い方として微妙な気がするけれど、ファイルに複数ファイルを一気にぶん投げられるのと役割と言おうか前提となる指示を設定できるのは楽な気がした。多分、こういう単発の要件で使う機能ではないと思う。
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LINEヤフー株式会社【4689】:生成AIによる企業分析・財務諸表分析サマリー
先んじて書いておくと、例によって以下の内容は生成AIによるものであるため、正確性については何一つ保証しない。また、投資判断に資する情報を提供する意図を持っておらず、仮に投資判断に関して何らかの参考にする場合は自己責任である。
サマリー
LINEヤフー株式会社は、2020年度から2024年度にかけて売上収益が成長を続け、2024年3月期には1兆8146億円に達しました。メディア事業やコマース事業、PayPayを中心とした戦略事業が収益を牽引しています。しかし、営業利益率は11.5%と安定しているものの、近年のプロモーション費用増加により低下傾向にあります。ROE(3.7%)やROIC(約4~5%)といった収益性指標も低調で、資本効率性の改善が求められます。
財務安全性は自己資本比率33.6%で一定の安定性を示していますが、業界平均と比較してやや低い水準にとどまります。キャッシュフロー面では営業キャッシュフローが堅調である一方、投資キャッシュフローが過多でフリーキャッシュフローはマイナスとなっており、慎重な投資計画が必要です。
LINE公式アカウント広告やeコマース、PayPay関連事業などの競争力は強みですが、利益率向上や資産活用効率の改善が課題です。今後は、コスト構造の見直しや資本効率性向上を通じて収益性を強化し、成長の持続性を確保する必要があります。投資価値は中立的な評価ですが、戦略の実行次第で成長余地が大きく広がる可能性があります。












