労畜の楽書き帳

労畜(https://twitter.com/rebreb01541)の雑記です。

混浴文化のファンタジー体験! 絶景温泉・露天風呂の衝撃 #ドキドキ

お題「最近ドキドキしたこと」

混浴文化が消えつつあると言われて久しい昨今、混浴の形態を未だに保っている温泉を利用する機会に出くわした。出くわした、と書いているのは何ら考えなく下調べもしないままに辿り着いた温泉が混浴だったからである。温泉に通じておらず、そもそも趣味と言える程にも知見を持っていない労畜にとって混浴とはどこかファンタジーに近い存在で、正直なところイメージもつかなかった。

 

また温泉にしても内風呂のイメージが強く、露天風呂は内風呂の延長戦上に存在する区切られた世界のイメージを持っていた。いやさ、区切られた世界のイメージしかなかった。だから今回辿り着いた温泉はどこか異世界のように思え、困惑を伴った驚きを強く感じている。秘境のような場所にぽっかりと開けた空間に古びた建物が建ち並ぶ集落のような場所である。余計に異世界を訪れた気分になり、驚きも一入だった。

驚きというならば、湖と言っても差し支えない大河にも面食らった。写真だと幾らかくすんで見えるが、実際には目が醒めるような青色だった。天色と言った方が良いかもしれない。不気味な程に鮮やかで、見れば見るほど怖気が込み上げてくる一方で、魅入らずにいられない。こんな景色を見られる場所の先にある温泉である。さぞ辺鄙な場所にあるのだろうと思ったものだが、先述した通り秘境と呼ぶに相応しい特異な空間に存在する温泉であり、混浴以前に木々と崖に挟まれた道を進んだ果てに現れた旧時代を感じさせる世界に圧倒された。

Googleマップ上ではそれほど時間のかからない距離であった筈なのに、現実に辿った道程は想定以上に長く、何より険しく細い山道を走り続けたため疲労感が強かった。自動車の存在しなかった時代、道路も整備された道すらなかった時代、どれだけの労苦を費やして人々がこの温泉を利用したのか想像すると鬱屈した気持ちになる。

 

混浴湯で目の前に広がる絶景

 

「曲がりくねった狭い道を走るのに慣れていて良かった」そう思いながら到着した先で車を降りて少し歩くと、古びた大きな建物がチラホラと目に留まった。

川を挟んだ対岸には、今は使われていない山荘やホテルがあり、一部は管理者の募集を行っている様子が窺えた。また写真の建物とは別のホテルが三千万円程の金額で売却に出されている。写真の山荘は裏の壁面が硫黄で爛れており、このまま放置していて良いのだろうかと思わせるが、解体するにしても解体費をどう捻出するかが課題になりそうである。昨今は岩手県内でも中華資本による宿泊施設の買収が行われており、中国人による中国人の為の宿泊旅行が催されていると聞くが、果たして冬季には封鎖されるこの地がそうした対象になるのかは気になる所である。

rotic.hatenablog.com

古びた建物が並ぶといった意味では、上記の記事で書いた宮城県気仙沼市の太田租界の様子を思い起こした。どちらも建物としての原型は今尚保っているのだから、昔に造られた建物というのは存外頑強である。いつ崩壊してもおかしくない建物を現在問題なく使えるかどうかは別としても、その逞しさには舌を巻かずにいられない。

エントランスで腰の低い番頭様に出迎えられ、受付にて各温泉についての説明を受ける。内湯は男湯として利用できない旨と女性専用の湯について説明を受けると共にそれ以外が混浴である旨を伝えられる。さりとて温泉というものの知見が乏しい労畜である。混浴と言われても今一具体的なイメージを持てていなかった。とりもなおさず何か建物の様なものが存在し、その先に露天風呂のようなものが用意され、そこを男女問わず利用するようなイメージを持っていた。混浴というよりそもそも露天というものをイメージできていなかった。そうした状態で、湯を目指す。

 

一度建物から出ると老朽化した建物が並び立つ道が正面に現れた。上の写真だとそうでもないように見えるかもしれないが、先に進むほどに「今、使えるのか?」と思うような老朽化が著しい建物が現れる。タイムリープでもした気分にさせられた。受付で案内された様に男が利用できると言われた湯を目指す。靴から履き替えたサンダルで土と岩の感触を踏みしめながら、奥へと行く。途中石段を下り、川縁に造られた湯の姿を認め、ここで初めて露天、そして混浴の意味を理解した。

 

川の傍らに建つ掘っ立て小屋のような脱衣所とその脇から見えるのは裸の男と彼のふぐりだ。少しすると豊満なふぐりをゆらゆら揺らしながら一番湯から二番湯へと歩いてくる男の群れが目に飛び込んでくる。なるほど、まさに露天。露出天国である。裸の付き合いなる言葉が太古より語り継がれているが、現実に湯船を挟んで見ず知らずの者同士で裸の付き合いなるコミュニケーションが生じる場面があまりない。人々の多くが新型コロナウイルス騒動を経験した今、尚更減っているように思う。

 

普段湯船を挟んで裸の付き合いなるコミュニケーションが生じていないのは、あくまで自宅の風呂に入っている延長線上で湯に浸かりに来ているためでもあるだろう。また大浴場ならば、わざわざ見ず知らずの裸のおっさんの隣に座って話しかけるのもおかしな話である。何に発展することを意図した行為なのか甚だ謎だ。だが大自然の中、川のせせらぎの傍らで小さな湯船を挟んで座っている状況ならば、会話をしてもおかしさはない。湯船にいるのだからお互いがふぐり丸出しなのも何ら不思議でない。言ってしまえば露天湯とは、裸の会議場、あるいは裸の休憩所である。普段我々が服を着た姿でコミュニケーションを取っている光景から服が消えただけなのだ。

 

そうか裸が日常になる世界。それこそが露天湯なのか。そしてそこに男も女も関係なくなるのが混浴。そう考えて、得も言われぬ納得感が労畜の中に生じた。一方で、そんな納得感を誰もが覚えるわけもない。来訪していた若い男の一団が「え、女の人ってどうするの? 一緒に入るの?」などと困惑した話をしている様子が見える。混浴なのだからそりゃそうである。とはいえ労畜もそうだったが、普段男女別、内湯を解した露天の温泉しか利用していない身にとって、男女共に吹き曝しの脱衣所があるだけの全裸前提の空間など異様に感じるのである。

 

これは生活してきた文化や育ってきた環境によって形成された意識によるもなのだろう。つまるところ混浴の露天のような男女共に裸で付き合う社交場との接点が幼い頃よりなかった我々にとって、各々素っ裸で交流する状況とは異質な環境であり、未知の異文化なのである。ましてポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)の過剰なまでの訴えやフェミニズムを謳う頭が逝かれている連中の異常なまでに偏った性概念への暴力を日々見聞きさせられる昨今である(※そんな話をしているのは極々一部の異常者だけで、真っ当なポリティカル・コレクトネスの訴え、フェミニズムの訴えは多く、耳を傾ける価値がある)。そうした概念とは一線を画している文化である混浴にさえ、それらに関する幻聴を耳にし、抵抗を覚えるのは無理もない。

館内には古き良き時代の温泉を掲げ、文化として混浴を大切にしている様子が窺えると共に、混浴のマナーについて丁寧な説明を行うよう努めている様子も感じられた(加えて男女で入浴時間を分けている様子も書かれている)が、一方でその古き良き時代から継がれている文化に触れた経験さえない者にとって、どうしたところで文化は異文化にしかならない。だからこその困惑である。昨今、こうした困惑が生じる要因になっている混浴温泉の減少について危機感を持って取り組んでいる動きもある。その良し悪しを置くとして、文化の断絶による無知が文化の弾劾に向かう可能性の高さを考えれば、そうした動きが出るのは必然だと感じた。これは混浴に限らず、ありとあらゆる文化と呼ばれるものに同じことが言えるのだと思う。

 

しかしながら混浴文化に関しては、声高に叫び多くの行動を起こしても、継承は難しいようにも感じられる。取り分け先述した若い男の一団の反応や湯が見える位置まで近付いたところで驚き慌てて踵を返した若い女客の様子を見るにつけて、性というものがどこかアンタッチャブルになり、男女の全裸の交流がすなわち性の営みに認識されてしまっている世代において、服を着ているか着ていないかの違いがあるだけの交流機会と言っても受け入れるのは不可能に近いだろう。それこそ子供の頃から当たり前に行っていなければ抵抗のある話であり、そうした環境を誰にとっても身近にする必要がある。少なくとも極々一部の温泉たちの間だけで嗜む文化のままでは困難だろう。

 

ところで、人生初の混浴の露天風呂はどうだったのか。その時の様子のイメージ画像が以下である。

画像の出典:ゴールデンカムイ野田サトル/集英社


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あの日読んだ名作の名前を君等は知らない

今週のお題「名作」

 

この数年、あることに悩み続けていて、未だに答えを出せずにいるのですけれど、考えても考えても答えを出せそうにないので、そろそろ誰かに答えを明示して欲しいと思わずにいられないわけです。

 

いやいや何年も悩み続けたのであれば最後まで諦めずに答えを出す努力をすべきだという声もあるでしょうし、真実そう言われるとなれば、なるほど確かにそういった考えにも一理あるからして、何とか自分で答えを出すべく努力を続けようかなどと考え直しそうになります。

 

しかしですよ。自分の矮小な脳の限界などたかが知れるわけで、何年も考え続け、悩み続けて尚答えを出せない中、よし諦めずに考え続けようと思い直したところできっと答えは出せないわけです。そりゃあ、現世から解放されて異世界に飛ばされるような人物ならば、何かの拍子に忽ち答えを出せるのかもしれないですけれど、労畜などはその辺に転がっている一介の禿げ親父でしかないのです。

 

まあ、親父といっても子はいないので、オヤジと書く方がニュアンス的には正確かもしれないですけれど。正確というか適切でしょうか。それはそれとして、そもそもその何年も抱え続けている悩みとやらは一体全体何なのかと思うかもしれません。なに、大した悩みではないのです。

 

もっとも大した悩みでないからこそ、誰に訊くでもなく一人抱えて悶々としながら煩悶の日々を過ごす羽目に陥っているとも言えます。え、回りくどい話もくどい言い回しも必要としていないですって? そりゃあ、誰だってそうでしょうとも。書いている側とて、ゴールデンウィークの連休と連休の合間の平日に出勤するような怠さを感じているのですから。

 

 

閑話休題というか間怠っしい口上を並べるの止めて本題に入ろうかと思ったけれど、そもそも本題という程に語ることがない。楽書き帳を掲げているブログだけに語るべきテーマのようなものなどそもそもないのだけど、何せ今回については「このままだと一度の更新もせぬままに四月が終わってしまう」なんて危機感だけで見切り発車した更新なので、真実語る内容がない。

 

そんな迷える羊のためにはてなブログではお題なるものを提供してくれるわけだけど、今週のお題は「名作」らしい。この十年、息を吸っては吐いてを繰り返すが如く仕事に明け暮れ、何なら仕事が絡まないと何一つとして行動できないようになりつつある身にとっては、とても難しいお題である。なんとまあ、間の悪いことってと思わずにいられない。それでも何かないかと考えてみた結果、パッと思いつくのは、「映画大好きポンポさん」である。

 

rotic.hatenablog.com

 

しかしながら、「映画大好きポンポさん」については既に書いている。よって今日という日に再び書こうものならば、自分の中で二番煎じ感が高まってしまうので面白くない。「映画大好きポンポさん」は二度三度、何度見ても素晴らしさを感じられる名作に違いないが、一方で労畜の文章などは二度と見たくないようなものに過ぎないため、二番煎じ味が出る内容を書くのは、やはり面白くないのである。自分にとっても誰にとっても。

 

とはいえそうなるとどうしたものか。せっかくはてなブログが迷える羊のために提供しているお題を使いながら、お題に沿えない文章を書いただけで終わってしまう。それは良くない。それではまるで詐欺師のようである。中身はないのに害だけはある情報商材を彷彿とさせる詐文になってしまう。もっとも労畜には誰かを騙して金をせしめようなどといった考えはないからして、そうした詐文との差分は明白にあろうし、被害などは一切出ないであろう。まあ、駄文という点においては差分はないかもしれないけれど。

 

兎に角にも「名作」である。そもそも「名作」とは何だろうか。デジタル大辞泉小学館)によれば、優れた作品、名高い作品を意味するらしい。なるほど分かるようで分からない。「迷作」ならば労畜のブログを読み返していただければ幾らでも出会えるわけだが、デジタル大辞泉が仰る「名作」となると中々難しいように思う。

 

一般的に「名作」と呼ばれる類いの作品ならば枚挙に暇がないが、誰もが優れたと評価する作品や誰にとっても名高い作品という意味での「名作」となると中々ないように思われる。例えば川端康成の「伊豆の踊子」は間違いなく「名作」と呼ぶに相応しい、事実多くの人々によって「名作」と讃えられている作品である。

 


伊豆の踊子 (新潮文庫)
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なんと2022年に改めて出版されている程に古びない「伊豆の踊子」だが、活字離れが叫ばれて久しい現代において、本作を実際に読んだ経験を持つ人々はどれだけいるだろうか。そしてどれだけの人が「名作」だと実感を持って評価するだろうか。「伊豆の踊子」が如何に「名作」と呼ばれようとも、読んだ経験を持つ人々が減っていってしまっては、「名作」の立ち位置も安泰とは言い難いように思える。「伊豆の踊子」に限らず、多くの「名作」と呼ばれる作品にも同様のことが言える。

 


ボボボーボ・ボーボボ 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)
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翻って、現代の大衆にとって「名作」と言われない可能性がそこそこある「ボボボーボ・ボーボボ」だが、世代の移り変わる中で多くの国民の目に触れ、心を掴み、高く評価されることで「名作」の座に君臨する可能性はゼロでない。頭空っぽの方が夢は詰め込めるし、心のまま本能の赴くままに様々なものを愛せるのである。もっとも「ボボボーボ・ボーボボ」は、現代においても十分に「名作」と呼ぶに相応しい作品ではあるけれど。

 

そう考えていくと「名作」とは確固たる存在というよりは、個々の観念や価値観によって好きに語って良いもののように思えてくる。「伊豆の踊子」は名作であるし、「ボボボーボ・ボーボボ」だって同じく名作であるのだ。人の数だけ「名作」が存在し、また生まれ続けるのである。前置きがほんの少しだけ長くなった。ほんの少し? と反応する読者もいそうだが、それとて「名作」同様に個々の観念や価値観によって捉え方が変わって良い筈である。人の数だけほんの少しが存在する。さて、事ここに至るまで書いた意味において、労畜にとっての「名作」を挙げるならば、やはりこの一冊だろう。

 


ザ・ゲーム フェニックスシリーズ
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「ザ・ゲーム 退屈な人生を変える究極のナンパバイブル」。言わずと知れたスタートアップ本である。「何がスタートアップ本じゃ、ナンパ本じゃねーか」と思った読者がいるかもしれないが、余りにも浅はかと言わざるを得ない。どうやら君等は「究極のナンパバイブル」という表面的な言葉を以てそう思ったのだろう。そんな軟派な思考では、恐らくこの名作が何故「名作」と言えるのかにも気付かない筈だ。

 

労畜がどうしてこの名作を手に取ったのかは既に記憶が曖昧だが、少なくとも「究極のナンパバイブル」などといった表層に惹かれて手に取ったのではないことだけは確かである。人生の在り方や精神世界の神髄を知られるインスピレーション。まさにそうした深層にある真相を直感的に察したからこそ本作を手にできた。「究極のナンパバイブル」などといった表層に囚われていたら、恐らくこの名作を手にすることはできなかった。

 

さて本作であるが、実際のところナンパ技術について語られているのは間違いないが、それは言ってしまえば入口である。ハニートラップとでも言おうか。ナンパ技術という果実を与え、本作の深層まで読者を惹き付ける作品である。本作で語られるナンパ技術などは寄せ餌に過ぎない。物語の中盤以降は、ナンパがテーマとして存在してはいるが、欲望の下に集った男達が生み出した組織の勃興と破滅、豊かな人生へ至るための問いと答えといった深いテーマへと向かっていく。

 

取り分け素晴らしいのは、組織の勃興と破滅が事細かに描かれ、それがまさにスタートアップの急成長の果てに陥る破滅という失敗の物語に重なる点であろう。急成長した組織は何故破綻に至るのか? その理由が読んでみると分かる。スタートアップのみならず、小さなチームという観点においても同様の示唆を得られるように思う。また、終盤は主人公の精神(内面)に深く入り込んでいくが、それは一人の男の人生の在り方を考える上で、非常に示唆に富む内容である。恐らく読者が何才であっても考えさせられる内容であり、自身の人生を見つめ直すための材料になる筈だ。

 

一見すると文字通りナンパに見える本作だが、中身は本物である。男としての真の成功を手中に収めたいのであれば、一度は読んだ方が良い。二千円にも満たない出費で、男としての人生の成功を掴むための材料を手に入れられる。五千円で売られているnoteを買ったところで、ググれば出てくるようなナンパテクニックにしか知られないが、「ザ・ゲーム 退屈な人生を変える究極のナンパバイブル」ならば、現実に成功したナンパ技術に加えて、男としての人生の成功を得るために必要な材料までも手に入るのである。

 

トム・クルーズも出演する男の「名作」である本作をぜひ手に入れて、人生の成功を獲得して欲しい。ところで、何度読んでも人生の失敗しか描けない労畜は、禿げ切った逃避をボディーソープで洗うべきかシャンプーで洗うべきか悩んでいる。いつか、この答えを教えてくれる「名作」に出会いたいものである。


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「結婚せず、子供の居ない人生に社会的な価値はない」孤独な生き方に疑問を感じて悩んでいる

お題「人といるのが好き?1人が好き?」

 

元々健康面に問題を抱えている身ではあるのだけど、それでも仕事をし続けなければならない個人事業主である以上は、風邪等にかからないように注意をしていた。一時期毎月のように風邪を引くようになってからは特に気にかけていて、運動と言えないまでも毎日三十分程度は体を動かすようなルーティンを組むなどしていた。その甲斐あって、直近数年は大きく健康を損ねるのは年に一回程度に抑えられており、新型コロナウイルスが世の中を賑わす中においても、当該ウイルスへの罹患も回避し、何や彼や仕事をし続けられていたのが昨年までの話である。

 

ところが今年に入ってからというもの、またもや毎月に近い頻度で体調を崩しており、とりわけ高熱に魘され、満足に体を動かせずに仕事をするのが難しくなる日が増えている。元々健康面に抱えている問題の影響ではなく、どちらかと言えば加齢による弱体化なのだと思う。健康診断を何ら問題なくパスし続けているが、加齢による身体機能の弱体化は刻一刻と進んでいるのだろう。実際問題として気付けば結構な年齢である。高々三十分程度体を動かすだけでは、身体機能を維持するのが難しくなってしまうのも無理はない。抜本的に生活を見直す必要があるのだろう。

 

加齢とともに増えていく人生の悩み

 

とまあ、加齢によって健康面に悩ましさを感じる昨今だけれども、加齢によって生じている悩みは健康面についてだけではない。年齢を重ねる程に周囲から結婚に関する圧力めいたものを徐々に感じるようになっている。糞田舎に居ながらにして東京圏の会社で仕事をしており、給与面が糞田舎比そこそこ高いというか更に同年代でフィルターをかけると若干ながら希有な層になっている点も影響しているように感じられる。日本全国というか東京圏で考えれば決して高給ではなく、寧ろ薄給側になるように思われるが、糞田舎が奴隷労働もかくやな低賃金を前提とした環境なせいである。他の地方も言う程大差ないのだから、地方で生活しようなんて思わない方が良いと考えずにいられない。

 

さておき、冷静に考えて年収など然程口外していないのだから、周囲にとって分からない筈だが、東京圏の会社で仕事をしているというだけで余裕があるように見えるらしい。取り立てて余裕があるわけでないのだけど。何にしても誰を紹介して貰えるでもなく、そこはかとない圧力がかかってきているわけである。尚、社内の人間に言われたときはハラスメントで通報しようかと思った。元々健康面に問題を抱えているので、もとより結婚など考え難いのだが、多様性社会のせいか、単なる第三者的な無責任さのなせるものか、年を重ねる程に圧力は高まっているように感じる。年齢を考えると、年頃をとうに過ぎて、結婚など諦めるような年齢であるようにも思うのだが。

 

そうした圧力に対して毅然と立ち向かい、撥ね除けられれば良いのだけど、仕事によって日々のし掛かってくる疲労感と募る虚無感で心が弱ってきており、また余りにも周囲から圧力を加えられ、その都度考えさせられるので、最近は悩みの種になってきてしまっている。また、昨年末から個人事業の今後を考えて対人関係構築を進めており、その過程で会う人間の多くが婚姻関係にあるパートナーや恋人との日常を過ごす人々で且つ同世代の者については概ね世帯持ちとなっている現実を見せられることから、果たして自分の人生はこのままで良いのだろうかと悩みを深めている。加えて、最近更に考えさせられる瞬間に立ち会った。

 

閉業する自治会運営の温泉「畑ノ沢鉱泉たまご湯」の話から考えさせられる人間の社会的な価値

 

note.com

 

糞田舎には、たまご湯という恐らく全国でも数が多いと言えない自治会で運営している温泉がある。上記の記事で書かれている場所である。この温泉は、上記の記事に書かれている通り、2024年3月、つまり今月を以て営業を停止する。終わると言われると行きたくなるのが人の心で、閉業の報を聞いて間もなく車を走らせ利用してきた。その際に休憩所で屯していた住民に話を聞いたわけだけど、どうやら20年以上続けていたらしい。閉業の理由は物価高・燃料高による事業維持の困難化であるが、そもそも運営に携わっていた自治会の面々は誰もが高齢者である。勝手な想像ではあるが、終わり時を窺っていたのでないかと感じられた。

 

一方で、たまご湯が営業を開始した時期を想像するに、恐らく20年程度で終える予定ではなかったのでないかとも思われ、また、この場所が地域住民にとってとても大切な場所であったのはひと目見て想像でき、何となく目論見としては温泉を起点に地域それ自体の活力を上げ、持続可能な地域社会を創っていきたかったのでないかと感じた。つまり、この温泉は設立当初の自治会の面々から後世へと引き継ぎながら、地域と共に育み、地域と共に遺していきたかったのでなかろうかと考えたのである。勝手な想像に過ぎないが、現代では違ってきているかもしれないが、本来事業とはそういうものである筈で、だからそうした考えは自然に在ったのでないかと思うのである。

 

ところが現実はどうだろうか。20年程度経った今でも次世代に引き継がれているわけでなく、20年程度の年を重ねた面々で運営されてきたのである。というのは妄想に過ぎないが、地域と地域住民によって営まれる事業の関係とは、本来そういったものでなかろうか。そして、親から子へ、子から孫へと地域も住民も事業も継がれていく。それが地域と人との営み、つまり社会において在るべき営みの形でなかろうか。そう考えたとき、結婚をせず、子を持たず、ただ独り生き続けている自分は、社会において在るべき営みの形から外れている自分の人生は、社会的に価値を持っているのか疑問が生じたのである。そんな疑問を抱いたために、前述の状況も相俟って余計に悩む日々を過ごしている。

 

もっともこの話は、何も未婚者や子供の居ない人々についてどうこう言う話ではない。生き方は各々の自由である。社会的な営みの中において、一人一人の人間が担う何某かがあったとして、その一つに継承があるのであれば、少なくとも現在の自分の人生は、その担う何某かを果たせていないと感じた程度の話である。個々の人生の在り方に口を挟む気は毛頭ない。

 

人といるのが好きか、一人が好きかを考える

 

閑話休題。前置きが長くなった。「人といるのが好き? 1人が好き?」といったテーマに話を立ち返るというか、話を移すならば、個人的にはどちらが好きというものでない。結果的に概ねずっと独りの時間を過ごしているが、独りが好きかと問われると回答に悩む。気付いたら独りで仕事をし、独りで余暇を過ごす日々を送っており、独りの状態を選んでいるでもなく、ただ独りの状況が存在している。言うなれば独りでいるのが自然な状態になっているので、好き嫌いの情が湧いて来ない。独りで居ない自分を想像できなくなっており、そこに好きも嫌いもないのである。

 

とりわけ健康面に問題を抱えてからは、人間関係の多くをクローズせざるを得ず、独りが常となった。僅かに恋人が居た時期もあるが、当時はそれを維持できるだけの健康的な心身を持ち合わせておらず、言ってしまえば人といるのが好きか、独りが好きかを思えるだけの余裕がなかったのである。気付けばそんな日々が彼此十年以上続いているのだから、中々どうして考えさせられる。話が少し逸れるが、さりとて健康面に問題を抱えてから十年と少し、多くのものを手放さざるを得ずにどうしようもなくなったときから、人生で悩める余裕が出来るまでに持って来られたのは、手前味噌ながら頑張ったと思う。こればかりは独りでよくやったと思う。今後はどうか分からんけれども。

 

そんなこんながある中で、今になって結婚圧をかけられるのだから、何を今更と思いはするにせよ、何だか正常ではない自分が、生き方においても正常から外れているように思えるのは悩ましく、どうにも直ぐには解を出せそうにないので、当面は悩み続けるのだろうなあと思わずにいられないのである。一方で最早生活が仕事そのものと化している現状、悩んで何某かの解を出したところで、仕事以外に何が出来るでもなく、虚無的に時間を重ねていくのだろうと思う。そうして行き着く先は、日々周囲から白い目で見られる独りベンチで佇む孤独な老人なのだろう。

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「東北の復興は失敗した」を考える / 2024.3.11-東日本大震災から13年目を迎えて

今週のお題「小さい春みつけた」

 

 

小さい春と言える話かどうかは何とも言えないが、小さい春が始まる今の時期は、どうしたところで3.11-東日本大震災を想起させられる。今年で13周忌と謳われているため、あの日から13年目を迎えるに至ったのだと知る。

 

2024年3月11日を迎えて東日本大震災から13年目

 

何も誰も彼もが亡くなったわけでないのだから、周忌と謳われたところで複雑な心境になるのだが、人によっては周忌で誤っていないのは確かである。自分は血も涙もないと言わないまでも、たといそれが親族だろうと亡くなった事実に基づき生じる感傷的な気持ちを引き摺れない性分なため、流石に10年以上も喪失した過去を引き摺るのは如何なものかと思わなくもないのだが、そうは言っても誰も彼もが自分のようなどこか壊れた人間であるわけでなし、過ぎ去った日々、亡くした人々に想いを馳せるのは致し方ないのだとも思いはする。さりとて後ろを見続けたところで幸福になどなれる由もないのだから、そろそろ引かれる後ろ髪を断ち切っても良いのでなかろうかと感じる気持ちはどうしたところで持たざるを得ない。

 

2024年3月11日を迎えれば、東日本大震災から13年目。つまり12年の歳月の流れを意味するわけだが、それだけの時間を経て東北沿岸部はどうなったかと言えば、多くの人々が存じている通り、東日本大震災以前の未来を欠いた単なる過疎地域の姿を取り戻している。東北唯一の都市であった仙台市や今なお国の金によって企業誘致や研究投資等が行われている福島県の一部を除き、見事なまでに消滅可能性の高い町が出来上がっている。とりもなおさず、2011年3月11日時点で誰もが予測できたであろう未来が、当然のようにやってきた形である。

 

東北は東日本大震災からの復興に失敗した

 

本記事において、数千億円、数兆円単位の税金を投じ、復興特別所得税と銘打って、現役世代の大半に今尚増税を強いている復興事業の是非を論じるつもりはないが、現在目の前に広がっている現実に照らせば、いわゆる『復興事業』は失敗したと言わざるを得ない。莫大な額の復興費を投じたわけでない岩手県宮城県内陸部の方が大きく成長している事実が皮肉にしか見えないほどに、東北沿岸部の復興は見事なまでの失敗を見せ、だからこそ石川県の能登半島地震に関する復興施策に対して復興費の投入に慎重論が出ているのだと思われる。

 

ちなみに一つ誤解して欲しくないのは、失敗したのは『復興』であって、復旧については成功している点である。単なる消滅するだけの過疎地を復旧させた事実に対する意見は多くあろうが、少なくとも住民の生活は東日本大震災以前を取り戻したどころか、寧ろ生活環境は大きく向上している。当たり前の話ではあるが、数千億円、数兆円といった規模の公金を投入すれば、生活環境を復旧させられるのである。一方で、それは消滅するだけの地域を再建することを意味し、国の力をただただ衰えさせる点は忘れてならない。

 

東日本大震災後の復旧施策に見られる失敗の数々

 

自分は従前より仮に復興費を投入するとしても、自治体の合併は前提とすべきだと考えていた。東日本大震災の被災地域の現在を見れば明白だが、いずれ消滅する程度の規模の自治体をそれぞれ同程度に復旧させようとしたがために、どれだけ人口規模が少なかろうと公営施設の多くを新設復旧させている。つまり合併を前提とすれば明らかに造られなかっただろう利用可能性の乏しい公営施設が、見事に乱立する形となり、愚かな自治体にあっては造るだけ造って維持に頭を抱えている始末である。嵩上げ地と呼ばれる恐らく最も金を食っただろう存在も同様だ。

 

災害公営住宅についても異論を俟たない。空室の目立つ災害公営住宅が実に多く、自治体によっては移住者向けに開放するなど、そうなるのであれば何故何億円もの国費を投じて建設したのかと言いたくなるような災害公営住宅が少なくない数存在している。『住み慣れた地域に住み続けたい』といった少数の住民達の私欲を叶えるべく高々数百人程度しか人口のない地域にまで建設した結果がこれである。

rotic.hatenablog.com

中心市街地の復旧については、自治体によって若干ながら成否が分かれているものの芳しい結果を出せている自治体は少ない。例えば先日記事に書いた岩手県大船渡市の中心市街地再生では、綺麗なだけの廃墟と言っても過言ではない商店街が再建され、エリアマネジメントの失敗が目に見える形で現れている。当初営業していたテナントの中で去って行くテナントが増え、半ば公金で飯を食っているような団体が入居するなど、民営とは言い難い状況が出始めている。持続可能性を念頭に置いたエリアマネジメントであるといった声も聞こえるが、人口が減っていくだけの町に内需型店舗と半ば公金で飯を食っているような団体をテナントに迎えたエリアの一体全体何処に持続可能性があるのか疑問は尽きない。

 

東北沿岸部でも岩手県陸前高田市宮城県気仙沼市のように移住者を多く迎えて、彼等の活躍を支えることで東日本大震災以前では見られなかった動きを見せている自治体もあるにはある。翻って言えば、大船渡市のようなそうした動きを上手く取れない自治体は、ただ消滅していくだけの未来が迫ってきている。そもそも東日本大震災の被災地である岩手県沿岸部においては、有効求人倍率が1.0倍を下回る異常事態が発生している程だ。昨今の少子高齢化による慢性的な人手不足環境が存在する現状、有効求人倍率は景況感の影響によらず1.0倍を割り難くなっている。単純に人が足りていないのだから当然である。しかしながら、そうした環境にあって求人不足が生じているのだ。それだけ地場企業の弱体化が著しく、自治体内の雇用創出能力が死んでいるわけだが、数千億円、数兆円規模の復興費を投入して再生した結果がこれというのは、無惨と言うよりない。

 

過疎地域の復興・復旧は冷静に考えるべきとの言が出るのは、前述のような惨憺たる結果を思えば、当然の話であろう。心情として復興・復旧を妨げるような言を並べるのには抵抗が出ようが、復興費の投入の失敗によってもたらされるのは国力の低下である。そして国力の低下の影響は全国民が受ける羽目になる。国として誰もが幸福な生活を送れる未来を創るべきだが、それは少数の人々を何としてでも幸福にしようとする社会とイコールではないし、そもそも幸福の形は一つでない。何より、自身を幸福にするのは国や社会ではなく自身である。たとい大きな不幸に見舞われようと、時間が経てばその全ては過去になる。現在、そして未来が幸福に満たされるかどうかは、刹那刹那の行動次第であり、その決定権を握っているのは誰でもない自身である。生殺与奪の権を他人に握らせるなとはよく言ったもので、被災においてもその真理は揺るがない。可哀想だから国の金で助けてあげようなんて言うのは、一見すると正しいように見えて、その実正しさが確保されているわけでない乱暴な話である。

 

13年目を迎える東日本大震災の被災地に対する声に変化が見られるのでなかろうか

 

小さな春が芽吹く今時期になると否が応でも3.11-東日本大震災が思い起こされる。各種メディアやSNS東日本大震災に纏わる様々な話がなされるのだろう。だが、昨年までと今年では、そうしたものが孕む空気感や語られる話の色合いも変わるのでなかろうか。つまり石川県の能登半島地震を経て、またインフレや円安で日々の生活苦が増している世情にあって、ここまで書いたような東日本大震災の復興の妥当性を問う声が、以前にも増して出てくるようになるのでなかろうか。

 

復興を目指して投入された国の金は、投資として投じられたものではない。だが、無に帰して良いものでなく、投じた結果が浪費でしたで済ませられるほど、現在の世論は甘くないだろう。被災自治体の多くは、復興の成果を出す点に対する考えが甘いと言わざるを得ず、だからこそ現在の惨憺たる状況があるようにも見えなくない。だとすれば、東日本大震災から13年目となる節目を迎える今、改めて復興の成果を冷静に見極め、確かな成果を出すように行動を求める必要があるようにも思われる。

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東日本大震災100の教訓 復興検証編 (震災復興・原発震災提言シリーズ)


総合検証 東日本大震災からの復興

能力不足の上司の能力不足が許されなくなってきているらしい

今週のお題「習慣にしたいこと・していること」

 

「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」とは彼の有名な文豪・夏目漱石の『こころ』における印象的な心無い言葉の一つだけれども、現実的に立ち返って考えるに、「精神的に向上心のあるだけのものも、馬鹿だ」と思うわけです。

 

向上心なるものは中々どうして厄介なもので、なければ落ちこぼれのようなような扱い方をされる一方で、持っていても言動が伴わなければやはり落ちこぼれのような扱いを受けてしまう、何だか諸刃の剣と言おうか選ばれし者だけが扱える聖剣のようなものに思えなくありません。

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本ブログに登場する能力不足の上司(現在は能力不足の元・上司)の一人は当に向上心ばかりを持った言動の伴わない人間で、おまけに自身を客観的に見られないタイプでもあるため、自己評価ばかりが高くなる始末に負えなさを持った人物だったわけです。

 

今回去ることになった、というよりも便チャーに見切りをつけた方の元・上司は、マネジメントラインとしての能力に欠けていただけで、個としては優れた人物であり、また少なくとも有言に対して実行する能力は持っており、マネジメントラインでさえなければ決して能力不足というわけではなかったのです(経歴も錚々たるものであった)。

 

一方で、ミドルマネジメントだった元・上司の方は、マネジメント能力面はもちろんとして、個としても優れた面が乏しく、その業務能力は言ってはアレだが新卒と大差ない、報連相さえできない点に鑑みれば新卒よりも質が悪いといった具合で、言葉を選ばずに言えばどうしようもない人物でした。

 

そんな人物でさえミドルマネジメントに就ける便チャーも中々どうして大丈夫かといった具合であったものの、その元・上司は偶発的にミドルマネジメントになったタイプであったので、問題があったとすれば、ミドルマネジメントとしてマネジメントを一切できず、かと言って個としても何ら評価できる点がなかったにもかかわらずミドルマネジメントに置き続けた点に問題がありました。

 

とはいえ、流石の便チャーも問題に気付いたのか、風の噂でミドルマネジメントの元・上司もどうやら降格の方向で動いているらしく、果たしてその元・上司も退職を選ぶかどうかに注目が集まるわけです。

 

と言っても、便チャーだったから甘く評価されたわけで、便チャー以外であると少なくともジョブを変えなければ今と同程度の給与を貰い続け、かつ昇給ラインに乗せられるかは大分怪しいと言わざるを得ないのが実情です。便チャーであれば、昇給は望めるだけに、悩ましい状況でないかと推測している今日この頃だったりします。

 

そんなマネジメントができないのにミドルマネジメントに置かれ続けた元・上司ですが、能力のない人間が部下を育てられるわけでもなく、彼の下にいた新卒も(元・上司ができないが故に教えられず)報連相や業務設計、他部署連携を上手く行えず、何と私の所属する部署に厄介を持ち込んできたので驚くばかりでした。

 

それも社外のステークホルダーに影響を及ぼす業務で適切な報連相を行わなかったものですから、あわや大惨事になりかけた次第で、何や彼や甘い対応をし続けた私も、元・上司の上司に対して報連相くらいはできないのか、部内で報連相の研修をしてくれないかと苦言を呈するに至ったわけです。彼の降格が決まっただろう少し前の話ですね。

 

それだけでなく、数ヶ月後に行われる彼の部署(つまり昨年まで私の所属していた部署

)主導の企画を突然私の部署に具体案も含めて考えてくれと投げつける始末で、前々から言ってはいましたけど、何をどう考えても、便チャーに必要のない部署だなあと思うなどしているわけです。

 

ちなみに肝心のパフォーマンスは、前年の10分の1近い状況らしく、一体全体数ヶ月にわたり毎日何に時間を使っていたのやらと首を傾げるに至っています。さっさと部署ごとなくしてしまったら良いのにと思っているのは私だけではないでしょう。毎期相当な額を消費している部署だけに、致命的になる前に処分するのが妥当なのですけれど。

 

 

前置きがとんでもなく長くなってしまったわけですが、習慣にしたいこと・習慣にしていることで言うと、前部署を含んで社員の書く日報をなるだけ読むようにしているのと、気になったときにカレンダーの予定を眺めるのを習慣にしています。

 

理由は単純でして、何せ誰もが皆自宅で仕事をしている環境ですから、こうでもしないと会社全体の様子を上手く掴む事ができず、そのまま業務を進めていると不意に突っ込んでくるトラックのように、異世界に転生させられるかのような大事故に巻き込まれかねないので、先々の景色を想定しながら仕事を進められるように習慣化しております。

 

どうもそんな暇な真似をしているのは私くらいなものらしく、奇異の目で見られるわけですけれど、少なくともマネジメントラインはそれくらいした方が良いのでないかとそこはかとない反駁をしたくなるものです。いつだって事件は会議室ではなく現場で起きているのであり、それは一人一人の社員に紐付いているのですから。

 

「いやいや、それは習慣でなく、単なる日々の仕事でしょう」という声が聞こえなくもないので、私個人の習慣で言うと、最近はなるだけ小説を読むようにしています。何せこの十年近く、仕事に感けて小説を読むという行為を怠け、仮に読んでも大学から渡された教材か仕事に絡んだ書籍を読むといった具合でした。

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「キドナプキディング」を読んだのが何年ぶりといった中で、そのキドナプキディングを読んでからまたぞろ一年近く小説を読んでいなかったわけです。私の本業は一応ライターなもので、流石にこの状態は拙いだろうと忸怩たる思いを抱いていたところ、部署異動により漸く時間を取りやすくなったもので、読書を再開するに至りました。

 

毎日とはいかないものの週に一冊は読むようになり、この十年失っていた新鮮な刺激を得られるようになり、充実した日々を送るに至らないものの幾らか心に潤いを感じられる瞬間を得られるようになっています。さりとて仕事は虚無的な時間が多く、果たしてこのままで良いのだろうかと煩悶が続いているわけですけれど。

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能力不足の上司たちの顛末と新キャラ能力不足の役員、そしてひたすら疲れる日々の話

今週のお題「元気を出す方法」

 

仕事に忙殺されている。といっても時間外労働をする程には労働時間を積んでいないので、心殺されていると書く方が正確である。毎日ただただ疲れる。どうしてこんなにも疲れるのか分からないが、日増しに疲労感が募っていく。寝ても寝ても疲れが取れず、病気を疑いたくなる。そもそも障害者であり、障害の程度が悪化しているわけだが、疲労感がそれによってもたらされているのか定かでない。逆はあり得ると思うのだけど。

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能力不足の上司から解放されたのは良いにしても、結局の所、能力不足の上司を野放しにしている会社には所属し続けているわけで、そんな組織で働くことによる疲労感からは解放されていない。ワークライフバランスが取れることくらいしか取り柄のない会社にもかかわらず、ワークでライフのバランスが崩れるとはこれ如何にといった感がある。

 

退職意向を伝えたときに引き留められても退職を留まってはいけない。世の中ではそう言われており、自分自身そう言っているわけだが、実際問題として退職を留まって数ヶ月が経ち感じるのは、やはり留まる選択をしない方が好ましいのだろうということである。

 

障害者雇用故に非正規であったが、オファーをくれた外資に行くべきだったのだと思わざるを得ない。今更言ったところで詮無いことではあるけれど。手前味噌ではあるが、これだけ好い人々が揃っていて、働き方も個々の自由に委ねられている働き易い会社であるにもかかわらず、日々疲労感を募らせ、転職した方が良かったと後悔するのだから、世の中分からないものである。人はこれを贅沢と呼ぶのだろう。

 

だが、何が不満というわけでなく、転職した方が良かったと感じるのだから、上手く言語化できていないだけで、やはりそう思わせるだけの何かがあるのでないかと思わずにいられない。単純に自分の嗜好に合っていないだけな気がしないでもないけれど、仮にそうだったとしても、そこに明確な要素、理由がある筈である。言語化できないだけで。尤も、そんなことを彼是考える時間など持ち合わせていないのだけれども。

 

まあ、さりとて自分だけがそんな想いに駆られているわけでなく、事業部門で最上位に近いロールであった、事業部門で希有な能力を持っていた人物が競合他社へと去って行ったり、実質的に事業一つを統括し、売上が直接紐付いていた人物が競合他社に容易く引き抜かれてしまうのだから、やはり人が辞めていく素地があるのだと思う。

 

マネジメントラインやそこに近い位置の人間が去って行くのは今に始まったことでないし、マネジメントラインで中途採用された人間はまるでワークしない会社なのである。マネジメントラインならまだしも役員ラインで中途採用された人間すらワークしないのは辟易とするのだけど。役会は一体全体何をしているのだろうか。

 

さておき、自分自身、マネジメントラインではない一方で、ほぼほぼ部長直下で仕事し、本来そこで留まる情報を少なからず与えられ、それを以て部長の代わりに手を動かさざるを得ない状況にあるのだから、他のそうした人々の例に漏れず退職を考えるのは自然な話なのかもしれない。まあ、自分の場合は、個人事業専従に戻りたくなっているのが一番大きいわけだけど。

 

ところで、その後能力不足の上司2名はどうなったかというと、1名は降格、1名は未だに悠々自適に仕事をしているわけである。部門には新たに加わった役員が統括者として入ったらしいが、他部署の部長ラインからの評価は芳しくないというか、存在が必要とされていない。彼が幾ら貰っているか知っているだけに、経費削減を掲げる環境において、非常に厄介なコストを抱えている気分になっている人々は少なくないのだろうと推察する。というかそんな話を聞かされた。

 

そんな新参役員が入社してやったことと言えば、グローバルで名の知れたコンサルファーム頼みでの社内制度改定なのだから、彼の評価は下がるばかりである。経歴だけ優れていて無能な上司が増える部署で仕事するなんて時間の無駄以外の何物でもないだけに、前部署を去って良かったと心底思っている。退職していたら尚良かった可能性が高い。

 

おまけに前部署は、昨年後半は何ら成果を出せず、ただただミーティングを繰り返しているだけであった。社内の他部署から見れば部署そのものが粗大ゴミと化しているわけだが、当の本人達は職務を果たしている気になっており、職務評価をしっかりとつけて昇給するつもりなのだから、会社の数字を管理している人々にとって厄介な存在と化す一方である。実際問題、当該部署が消えて誰か困るのかというと、誰も困らないのが実情である。

 

経費削減をやたら叫ぶ状況にあって、明らかに無駄なコストそのものとなっている当該部署を放置すればするほど会社の状況は悪化する可能性があり、まさに癌そのものだが、改善するどころか、社内でのプレゼンスを高めようとする動きを放置するに至っている。優しい人間が多い組織は、こうして成長を止め、死んでいくのだろうと思わせる光景である。上場できたとして、成長を続けられるのだろうか。

 

とまあ、何だか直接の仕事以外の面で疲労感を募らせる要素が其処彼処にある状況である。尚、彼等がろくな仕事をしないせいで、異動した自分がちょこちょこ恨み節と言わないまでも愚痴られるので堪ったものでない。去年前半、一昨年後半の成果は主に自分一人の成果だったと前部署が認めたらしいが、そんな話が出たら余計に愚痴られるのでやめて欲しい。いい加減仕事しろよと思わずにいられない。

 

前置きが非常に長くなった。

 

今回の記事もお題を設定している。お題は元気の出し方である。日に日に元気が消えて行っているので寧ろ教えて欲しいくらいだけれども、だったらお題に設定するなという話でしかないので、何か捻り出したいと思う。

 

疲れている疲れていると書いたもののここ3ヶ月程度は、プライベートの過ごし方を少しずつ変えようとしている。といっても、自分は仕事しかない人間で、仕事が絡まないと今一身動きを取れない人間なので、半ば無理矢理に仕事を絡ませながら過ごし方を変えている。

 

具体的な話として、これまで時間を取っていなかったというか避けていた地域のイベントに参加したり、地域の人々との関わりを増やしたりしている。車社会なので気軽に飲み会等に参加できないのが難点だが、居酒屋やスナック、バー等に足を運び、地元の人々の話を聴く機会を増やしもした。

 

まあ、スナックについては数回足を運んだところで、金を払う意義を見出せずに行かなくなったけれど。AIに食われそうな業態だなあと思ってしまった。AIが当たり前になると、寧ろスナックのような店の価値が上がるのでないかと思う向きもあるのかもしれないが、個人的には取って代わられやすそうな印象の方を強く受けている。

 

一方で、地元の人間事情みたいな情報を得る場所としては、そこそこ価値はあるように感じもした。とはいえ、死に行くだけの町の人間事情を知る時間に一体全体どれだけの価値があるのかと思わずにはいられない。

rotic.hatenablog.com

もしも価値を持つとしたら、死に行くだけの町にとどめを刺すためくらいでなかろうか。また、人間事情を知るという観点においては、今は彼方此方で行政が多少噛んでいるイベントが行われており、それこそ地元の名士と呼ばれるような人々も参加しているケースは多いので、そちらで十分に感じる。

rotic.hatenablog.com

お題の話に戻ると、元気の出し方として最近悪くないと思っているのは、「多種多様な人々の話を聴く」だろうか。それこそ上記の記事に通じるが、最近は移住者や地域のイベントで出会った人々と交流し、多種多様な話を聴くようにしている。

 

若い人々との話を聴く機会も増えた。やはりバックグラウンドの全く異なる人々の話を聴くと新鮮さが感じられ、日々会社のどうしようもない話ばかりを聴いている自分にとっては、貴重な機会となっている。

 

また、移住者を通じて、自分が全く知らない土地の話を聴くのは、出不精で旅行など全くしない自分にとってはありがたく、未知に触れる機会となり、心がほんの少しだけ踊る。SNSを通じても同様の話に触れる経験はできるが、生の人間の生の声によって聴くのは、何となく違った趣があるように感じている。

 

それほど頻繁にある機会でもないが、少なくとも今年一年は出歩き、多種多様な人々の声に耳を傾けたいと思う。自分の年齢的に無理にでも他者の価値観に触れないと、視野も価値観も狭まっていくだけになると感じているため、それを避けるためでもある。


仕事は楽しいかね? (きこ書房)

 


AI時代の感性:デジタル消費社会の「人類学」

 

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「僕の心のヤバイやつ」とは違った意味でヤバイ自分の人生に想い馳せる

「僕の心のヤバイやつ」の2期がヤバイ程に良いのは言うまでもないと思うし、どれだけヤバイのかは恐らく巷で流行りのSNS・Xや個々人のブログなどで書き尽くされているから書くまでもないと思う。


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そんなヤバイ作品である「僕の心のヤバイやつ」の2期を見ながら、個人的にヤバイ程良いと感じたのが、OPソングである。どれくらいヤバイ程良いと感じているかというと、ほぼ毎日リピートして聴いているくらいには良いと感じている。

正直なところ、「僕の心のヤバイやつ」の2期がどうでも良くなるくらいには、OPソングであるあたらよの「僕は……」にハマっている。本曲に恋を知るくらいに、本曲が好きで、ふとした瞬間にYouTubeを開いては本曲を聴いている。

「いやさ、お前は一体全体何を書きたいんだ」とでもそろそろ思われそうなので、前置きはここまでにして本題を書きたいと思うのだけど、冷静に考えて本ブログは楽書き帳なわけで、前置きも糞もなく書きたいことを書き散らすのが在るべき形である。

というわけで、あたらよの「僕は……」の話に戻るのだけど、本曲は様々なところで原作を読み込んだ曲であるとか、本アニメ・原作漫画の主人公である市川が書いた詞だろうとか言われているほどに、原作や登場人物の世界観を忠実に再現していると感じられる曲である。

脚本家の創る脚本が原作者の意図にそぐわず原作者が出動したと話題のドラマ「セクシー田中さん」とは対極にある曲と言っても良いかもしれない。「セクシー田中さん」はドラマも原作も触れた経験がないので、その辺はよく分からないのだけど。

ただ一物書きとしては、脚本家として予め伝えられていた指示から大きく外れてしまうのは、プロフェッショナルとしてどうかと思わなくもない。まあ、テレビ局が脚本家に報連相できていなかった可能性もゼロでないだろうけれども。


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さて、あたらよの「僕は……」だけれど、本曲で描かれている、想い人を通じて新たな世界を得られるといった話は、フィクションでない我々が生きているありふれた日常を繰る世界においても珍しい話でない。もっと言えば、想い人を通じずとも自分以外の他者と一定程度深く関わっていけば、自ずと得られるものである。

よく人間一人の人生を物語にたとえられることがあるわけだけど、実際のところ人間一人の人生とは物語というよりは、そのもの世界であって、関わり合いが深くなればなるほどに、自分の人生=世界と他者の人生=世界が交わり、未知の世界を知られるのである。

新たに知る世界が自分や他者にとって居心地の良いものであるかは定かでないが、いずれにしても自分だけの世界に居続けるよりも視野が広がるのは間違いない。自分だけの世界に居続けても感じられなかった感情を知ることも増えるだろう。自分だけの世界を生きていた時のままでは居られなくなるのである。

人間が他者と深く関わるとは、それだけ激動の出来事であり、感情や思考が大きく揺さぶられ、自分の人生の在り方が変わり、文字通り生きている世界が大きく変わることである。そんなにも感受性豊かな感想を逐一持ちながら他者と関わる人間もそう居ないだろうけれど。とはいえ、本来的にはそれだけインパクトのあることに違いない。

昨今はSNSを通じて、前述の世界と世界の邂逅が各所で起こり、様々な衝突や世界大戦とでも言うべき争いが日常的に起こっている。本来交わらない人々が交わっているなどと軽薄な話をする人間もいるが、そもそも赤の他人同士が出会い、深く関わっていくというのは、それくらい起こって然るべきことでしかない。それが可視化されているに過ぎない。

そんなことを考えさせられながらあたらよの「僕は……」を聴いている日々でもあるのだけど、一方でそうした世界と世界の衝突、あるいは世界と世界の交わりを通して知る新たな世界の美しさや喜び、それまでの自分の人生にはなかった彩りといった諸々が自分の人生にどれだけあるのだろうかと想いもしている。

そもそも本質的なところで他者に対して関心がないどころか、自分の人生というものにさえ関心が薄いので、繰り返し書いてきた人生という名の世界と世界の交わりが起こる程の関わりを持つことがない。だから、ある種自分とはかなり縁遠い話でもある。だが、果たして自分の人生はそれで良いのだろうかと想いもし、中々どうして悩ましい。

楽書きなので特に落ちもまとめもないのだけど、ブログはそれで良いにしても、自分の人生については流石にもう少し何らかの方向性というか改善というか、考えていかないと良くないよなあと思わずにいらない。年だけ重ねるとろくなことにならないことを年を重ねる度に痛感させられる。


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