労畜の楽書き帳

労畜(https://twitter.com/rebreb01541)の雑記です。

「結婚せず、子供の居ない人生に社会的な価値はない」孤独な生き方に疑問を感じて悩んでいる

お題「人といるのが好き?1人が好き?」

 

元々健康面に問題を抱えている身ではあるのだけど、それでも仕事をし続けなければならない個人事業主である以上は、風邪等にかからないように注意をしていた。一時期毎月のように風邪を引くようになってからは特に気にかけていて、運動と言えないまでも毎日三十分程度は体を動かすようなルーティンを組むなどしていた。その甲斐あって、直近数年は大きく健康を損ねるのは年に一回程度に抑えられており、新型コロナウイルスが世の中を賑わす中においても、当該ウイルスへの罹患も回避し、何や彼や仕事をし続けられていたのが昨年までの話である。

 

ところが今年に入ってからというもの、またもや毎月に近い頻度で体調を崩しており、とりわけ高熱に魘され、満足に体を動かせずに仕事をするのが難しくなる日が増えている。元々健康面に抱えている問題の影響ではなく、どちらかと言えば加齢による弱体化なのだと思う。健康診断を何ら問題なくパスし続けているが、加齢による身体機能の弱体化は刻一刻と進んでいるのだろう。実際問題として気付けば結構な年齢である。高々三十分程度体を動かすだけでは、身体機能を維持するのが難しくなってしまうのも無理はない。抜本的に生活を見直す必要があるのだろう。

 

加齢とともに増えていく人生の悩み

 

とまあ、加齢によって健康面に悩ましさを感じる昨今だけれども、加齢によって生じている悩みは健康面についてだけではない。年齢を重ねる程に周囲から結婚に関する圧力めいたものを徐々に感じるようになっている。糞田舎に居ながらにして東京圏の会社で仕事をしており、給与面が糞田舎比そこそこ高いというか更に同年代でフィルターをかけると若干ながら希有な層になっている点も影響しているように感じられる。日本全国というか東京圏で考えれば決して高給ではなく、寧ろ薄給側になるように思われるが、糞田舎が奴隷労働もかくやな低賃金を前提とした環境なせいである。他の地方も言う程大差ないのだから、地方で生活しようなんて思わない方が良いと考えずにいられない。

 

さておき、冷静に考えて年収など然程口外していないのだから、周囲にとって分からない筈だが、東京圏の会社で仕事をしているというだけで余裕があるように見えるらしい。取り立てて余裕があるわけでないのだけど。何にしても誰を紹介して貰えるでもなく、そこはかとない圧力がかかってきているわけである。尚、社内の人間に言われたときはハラスメントで通報しようかと思った。元々健康面に問題を抱えているので、もとより結婚など考え難いのだが、多様性社会のせいか、単なる第三者的な無責任さのなせるものか、年を重ねる程に圧力は高まっているように感じる。年齢を考えると、年頃をとうに過ぎて、結婚など諦めるような年齢であるようにも思うのだが。

 

そうした圧力に対して毅然と立ち向かい、撥ね除けられれば良いのだけど、仕事によって日々のし掛かってくる疲労感と募る虚無感で心が弱ってきており、また余りにも周囲から圧力を加えられ、その都度考えさせられるので、最近は悩みの種になってきてしまっている。また、昨年末から個人事業の今後を考えて対人関係構築を進めており、その過程で会う人間の多くが婚姻関係にあるパートナーや恋人との日常を過ごす人々で且つ同世代の者については概ね世帯持ちとなっている現実を見せられることから、果たして自分の人生はこのままで良いのだろうかと悩みを深めている。加えて、最近更に考えさせられる瞬間に立ち会った。

 

閉業する自治会運営の温泉「畑ノ沢鉱泉たまご湯」の話から考えさせられる人間の社会的な価値

 

note.com

 

糞田舎には、たまご湯という恐らく全国でも数が多いと言えない自治会で運営している温泉がある。上記の記事で書かれている場所である。この温泉は、上記の記事に書かれている通り、2024年3月、つまり今月を以て営業を停止する。終わると言われると行きたくなるのが人の心で、閉業の報を聞いて間もなく車を走らせ利用してきた。その際に休憩所で屯していた住民に話を聞いたわけだけど、どうやら20年以上続けていたらしい。閉業の理由は物価高・燃料高による事業維持の困難化であるが、そもそも運営に携わっていた自治会の面々は誰もが高齢者である。勝手な想像ではあるが、終わり時を窺っていたのでないかと感じられた。

 

一方で、たまご湯が営業を開始した時期を想像するに、恐らく20年程度で終える予定ではなかったのでないかとも思われ、また、この場所が地域住民にとってとても大切な場所であったのはひと目見て想像でき、何となく目論見としては温泉を起点に地域それ自体の活力を上げ、持続可能な地域社会を創っていきたかったのでないかと感じた。つまり、この温泉は設立当初の自治会の面々から後世へと引き継ぎながら、地域と共に育み、地域と共に遺していきたかったのでなかろうかと考えたのである。勝手な想像に過ぎないが、現代では違ってきているかもしれないが、本来事業とはそういうものである筈で、だからそうした考えは自然に在ったのでないかと思うのである。

 

ところが現実はどうだろうか。20年程度経った今でも次世代に引き継がれているわけでなく、20年程度の年を重ねた面々で運営されてきたのである。というのは妄想に過ぎないが、地域と地域住民によって営まれる事業の関係とは、本来そういったものでなかろうか。そして、親から子へ、子から孫へと地域も住民も事業も継がれていく。それが地域と人との営み、つまり社会において在るべき営みの形でなかろうか。そう考えたとき、結婚をせず、子を持たず、ただ独り生き続けている自分は、社会において在るべき営みの形から外れている自分の人生は、社会的に価値を持っているのか疑問が生じたのである。そんな疑問を抱いたために、前述の状況も相俟って余計に悩む日々を過ごしている。

 

もっともこの話は、何も未婚者や子供の居ない人々についてどうこう言う話ではない。生き方は各々の自由である。社会的な営みの中において、一人一人の人間が担う何某かがあったとして、その一つに継承があるのであれば、少なくとも現在の自分の人生は、その担う何某かを果たせていないと感じた程度の話である。個々の人生の在り方に口を挟む気は毛頭ない。

 

人といるのが好きか、一人が好きかを考える

 

閑話休題。前置きが長くなった。「人といるのが好き? 1人が好き?」といったテーマに話を立ち返るというか、話を移すならば、個人的にはどちらが好きというものでない。結果的に概ねずっと独りの時間を過ごしているが、独りが好きかと問われると回答に悩む。気付いたら独りで仕事をし、独りで余暇を過ごす日々を送っており、独りの状態を選んでいるでもなく、ただ独りの状況が存在している。言うなれば独りでいるのが自然な状態になっているので、好き嫌いの情が湧いて来ない。独りで居ない自分を想像できなくなっており、そこに好きも嫌いもないのである。

 

とりわけ健康面に問題を抱えてからは、人間関係の多くをクローズせざるを得ず、独りが常となった。僅かに恋人が居た時期もあるが、当時はそれを維持できるだけの健康的な心身を持ち合わせておらず、言ってしまえば人といるのが好きか、独りが好きかを思えるだけの余裕がなかったのである。気付けばそんな日々が彼此十年以上続いているのだから、中々どうして考えさせられる。話が少し逸れるが、さりとて健康面に問題を抱えてから十年と少し、多くのものを手放さざるを得ずにどうしようもなくなったときから、人生で悩める余裕が出来るまでに持って来られたのは、手前味噌ながら頑張ったと思う。こればかりは独りでよくやったと思う。今後はどうか分からんけれども。

 

そんなこんながある中で、今になって結婚圧をかけられるのだから、何を今更と思いはするにせよ、何だか正常ではない自分が、生き方においても正常から外れているように思えるのは悩ましく、どうにも直ぐには解を出せそうにないので、当面は悩み続けるのだろうなあと思わずにいられないのである。一方で最早生活が仕事そのものと化している現状、悩んで何某かの解を出したところで、仕事以外に何が出来るでもなく、虚無的に時間を重ねていくのだろうと思う。そうして行き着く先は、日々周囲から白い目で見られる独りベンチで佇む孤独な老人なのだろう。

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