労畜の楽書き帳

労畜(https://twitter.com/rebreb01541)の雑記です。

「豊かさとは何か」気仙沼市への移住者を通じて考える地方での生き方

ふとした瞬間に「幸福とは何か」「豊かさとは何か」といったことについて考えを巡らせている、などと言えば心の病んだ人間を想わせるけれども、事実心を病んでいる身なので致し方ない。

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昨日、市内の喫茶店を訪れた際のことをつらつらと書いたわけだけど、多様性云々は別として、夫婦が子どもを慈しみながら仲睦まじく汗を流している姿には、ある種の明確な幸福感が存在しているように想えた。店を訪れていた自分以外の人々も顔を綻ばせながら思い思いの時間を過ごせているように見て取れており、そうした幸福感は、多くの人々にとって共通の感覚なのでなかろうか? と示唆を得たような気になった。

無論、その瞬間に感じられた幸福感とは、刹那を切り取ったものであり、永遠に続くようなものでない。そもそも自分から見て幸福感めいたものが感じられたわけだけど、当人達にとっては苦しい瞬間である可能性も否めない。店を訪れていた人々にしたところで、実際に幸福感を覚えていたかは定かでない。完全なる自分の想像である。

若干の言い訳を挟むならば、幸福感なるものはおよそ主観的なもので、同時に刹那的なものだから致し方ないということだ。幸福感とは何かをふとした瞬間に問うている自分ではあるけれど、流石にそのくらいは理解しているし、それ自体はどうしようもないものだと感じている。一方で、幸福感の実像を何ら思い描けていない自分にとって、今回喫茶店を訪れて過ごした刹那は、非常に示唆に富むものだと感じた。

これは先日訪れた場所で目にした光景の一つである。親子や子供同士の語らい、老人達の憩う何気ない刹那の光景だけれど、ここにもある種の幸福感のようなものがあるように感じられた。

先述した内容との共通点といえば、親しい人と人とのふれ合いだろう。孤独でないことが幸福であるかのように語られる昨今の社会を想うに、確かに孤独さが感じられない二つの光景は、幸福の象徴と言うべきものなのかもしれない。

だが、必ずしも独りでいることが不幸ではないのが実情である。独りであろうと確かな幸福感を得ている人々は少なくないし、近年は寧ろそうした人々が増えている筈だ。そう考えると、「幸福とは何か」やはり分からなくなってくる。

まあ、ここまでの話を引っくり返すようで申し訳ないけれども、そもそも幸福の定義は一つでない筈で、人の数だけ存在するものなのだろう。だからある種考えても仕方ない話なのかもしれない。とはいえ仕方ないで済ませて良いと思えないから、ふとした瞬間に考えてしまうわけである。

個の豊かさを通じて地域の豊化が創る好循環を見せる気仙沼市

先日と言えば、偶々とある人に案内され、どの道休日の時間の使い方に悩んでいたこともあり、気仙沼市のとあるイベントに参加した。場所はPier7である。

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