労畜の楽書き帳

労畜(https://twitter.com/rebreb01541)の雑記です。

「東北の復興は失敗した」を考える / 2024.3.11-東日本大震災から13年目を迎えて

今週のお題「小さい春みつけた」

 

 

小さい春と言える話かどうかは何とも言えないが、小さい春が始まる今の時期は、どうしたところで3.11-東日本大震災を想起させられる。今年で13周忌と謳われているため、あの日から13年目を迎えるに至ったのだと知る。

 

2024年3月11日を迎えて東日本大震災から13年目

 

何も誰も彼もが亡くなったわけでないのだから、周忌と謳われたところで複雑な心境になるのだが、人によっては周忌で誤っていないのは確かである。自分は血も涙もないと言わないまでも、たといそれが親族だろうと亡くなった事実に基づき生じる感傷的な気持ちを引き摺れない性分なため、流石に10年以上も喪失した過去を引き摺るのは如何なものかと思わなくもないのだが、そうは言っても誰も彼もが自分のようなどこか壊れた人間であるわけでなし、過ぎ去った日々、亡くした人々に想いを馳せるのは致し方ないのだとも思いはする。さりとて後ろを見続けたところで幸福になどなれる由もないのだから、そろそろ引かれる後ろ髪を断ち切っても良いのでなかろうかと感じる気持ちはどうしたところで持たざるを得ない。

 

2024年3月11日を迎えれば、東日本大震災から13年目。つまり12年の歳月の流れを意味するわけだが、それだけの時間を経て東北沿岸部はどうなったかと言えば、多くの人々が存じている通り、東日本大震災以前の未来を欠いた単なる過疎地域の姿を取り戻している。東北唯一の都市であった仙台市や今なお国の金によって企業誘致や研究投資等が行われている福島県の一部を除き、見事なまでに消滅可能性の高い町が出来上がっている。とりもなおさず、2011年3月11日時点で誰もが予測できたであろう未来が、当然のようにやってきた形である。

 

東北は東日本大震災からの復興に失敗した

 

本記事において、数千億円、数兆円単位の税金を投じ、復興特別所得税と銘打って、現役世代の大半に今尚増税を強いている復興事業の是非を論じるつもりはないが、現在目の前に広がっている現実に照らせば、いわゆる『復興事業』は失敗したと言わざるを得ない。莫大な額の復興費を投じたわけでない岩手県宮城県内陸部の方が大きく成長している事実が皮肉にしか見えないほどに、東北沿岸部の復興は見事なまでの失敗を見せ、だからこそ石川県の能登半島地震に関する復興施策に対して復興費の投入に慎重論が出ているのだと思われる。

 

ちなみに一つ誤解して欲しくないのは、失敗したのは『復興』であって、復旧については成功している点である。単なる消滅するだけの過疎地を復旧させた事実に対する意見は多くあろうが、少なくとも住民の生活は東日本大震災以前を取り戻したどころか、寧ろ生活環境は大きく向上している。当たり前の話ではあるが、数千億円、数兆円といった規模の公金を投入すれば、生活環境を復旧させられるのである。一方で、それは消滅するだけの地域を再建することを意味し、国の力をただただ衰えさせる点は忘れてならない。

 

東日本大震災後の復旧施策に見られる失敗の数々

 

自分は従前より仮に復興費を投入するとしても、自治体の合併は前提とすべきだと考えていた。東日本大震災の被災地域の現在を見れば明白だが、いずれ消滅する程度の規模の自治体をそれぞれ同程度に復旧させようとしたがために、どれだけ人口規模が少なかろうと公営施設の多くを新設復旧させている。つまり合併を前提とすれば明らかに造られなかっただろう利用可能性の乏しい公営施設が、見事に乱立する形となり、愚かな自治体にあっては造るだけ造って維持に頭を抱えている始末である。嵩上げ地と呼ばれる恐らく最も金を食っただろう存在も同様だ。

 

災害公営住宅についても異論を俟たない。空室の目立つ災害公営住宅が実に多く、自治体によっては移住者向けに開放するなど、そうなるのであれば何故何億円もの国費を投じて建設したのかと言いたくなるような災害公営住宅が少なくない数存在している。『住み慣れた地域に住み続けたい』といった少数の住民達の私欲を叶えるべく高々数百人程度しか人口のない地域にまで建設した結果がこれである。

rotic.hatenablog.com

中心市街地の復旧については、自治体によって若干ながら成否が分かれているものの芳しい結果を出せている自治体は少ない。例えば先日記事に書いた岩手県大船渡市の中心市街地再生では、綺麗なだけの廃墟と言っても過言ではない商店街が再建され、エリアマネジメントの失敗が目に見える形で現れている。当初営業していたテナントの中で去って行くテナントが増え、半ば公金で飯を食っているような団体が入居するなど、民営とは言い難い状況が出始めている。持続可能性を念頭に置いたエリアマネジメントであるといった声も聞こえるが、人口が減っていくだけの町に内需型店舗と半ば公金で飯を食っているような団体をテナントに迎えたエリアの一体全体何処に持続可能性があるのか疑問は尽きない。

 

東北沿岸部でも岩手県陸前高田市宮城県気仙沼市のように移住者を多く迎えて、彼等の活躍を支えることで東日本大震災以前では見られなかった動きを見せている自治体もあるにはある。翻って言えば、大船渡市のようなそうした動きを上手く取れない自治体は、ただ消滅していくだけの未来が迫ってきている。そもそも東日本大震災の被災地である岩手県沿岸部においては、有効求人倍率が1.0倍を下回る異常事態が発生している程だ。昨今の少子高齢化による慢性的な人手不足環境が存在する現状、有効求人倍率は景況感の影響によらず1.0倍を割り難くなっている。単純に人が足りていないのだから当然である。しかしながら、そうした環境にあって求人不足が生じているのだ。それだけ地場企業の弱体化が著しく、自治体内の雇用創出能力が死んでいるわけだが、数千億円、数兆円規模の復興費を投入して再生した結果がこれというのは、無惨と言うよりない。

 

過疎地域の復興・復旧は冷静に考えるべきとの言が出るのは、前述のような惨憺たる結果を思えば、当然の話であろう。心情として復興・復旧を妨げるような言を並べるのには抵抗が出ようが、復興費の投入の失敗によってもたらされるのは国力の低下である。そして国力の低下の影響は全国民が受ける羽目になる。国として誰もが幸福な生活を送れる未来を創るべきだが、それは少数の人々を何としてでも幸福にしようとする社会とイコールではないし、そもそも幸福の形は一つでない。何より、自身を幸福にするのは国や社会ではなく自身である。たとい大きな不幸に見舞われようと、時間が経てばその全ては過去になる。現在、そして未来が幸福に満たされるかどうかは、刹那刹那の行動次第であり、その決定権を握っているのは誰でもない自身である。生殺与奪の権を他人に握らせるなとはよく言ったもので、被災においてもその真理は揺るがない。可哀想だから国の金で助けてあげようなんて言うのは、一見すると正しいように見えて、その実正しさが確保されているわけでない乱暴な話である。

 

13年目を迎える東日本大震災の被災地に対する声に変化が見られるのでなかろうか

 

小さな春が芽吹く今時期になると否が応でも3.11-東日本大震災が思い起こされる。各種メディアやSNS東日本大震災に纏わる様々な話がなされるのだろう。だが、昨年までと今年では、そうしたものが孕む空気感や語られる話の色合いも変わるのでなかろうか。つまり石川県の能登半島地震を経て、またインフレや円安で日々の生活苦が増している世情にあって、ここまで書いたような東日本大震災の復興の妥当性を問う声が、以前にも増して出てくるようになるのでなかろうか。

 

復興を目指して投入された国の金は、投資として投じられたものではない。だが、無に帰して良いものでなく、投じた結果が浪費でしたで済ませられるほど、現在の世論は甘くないだろう。被災自治体の多くは、復興の成果を出す点に対する考えが甘いと言わざるを得ず、だからこそ現在の惨憺たる状況があるようにも見えなくない。だとすれば、東日本大震災から13年目となる節目を迎える今、改めて復興の成果を冷静に見極め、確かな成果を出すように行動を求める必要があるようにも思われる。

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