労畜の楽書き帳

労畜(https://twitter.com/rebreb01541)の雑記です。

混浴文化のファンタジー体験! 絶景温泉・露天風呂の衝撃 #ドキドキ

お題「最近ドキドキしたこと」

混浴文化が消えつつあると言われて久しい昨今、混浴の形態を未だに保っている温泉を利用する機会に出くわした。出くわした、と書いているのは何ら考えなく下調べもしないままに辿り着いた温泉が混浴だったからである。温泉に通じておらず、そもそも趣味と言える程にも知見を持っていない労畜にとって混浴とはどこかファンタジーに近い存在で、正直なところイメージもつかなかった。

 

また温泉にしても内風呂のイメージが強く、露天風呂は内風呂の延長戦上に存在する区切られた世界のイメージを持っていた。いやさ、区切られた世界のイメージしかなかった。だから今回辿り着いた温泉はどこか異世界のように思え、困惑を伴った驚きを強く感じている。秘境のような場所にぽっかりと開けた空間に古びた建物が建ち並ぶ集落のような場所である。余計に異世界を訪れた気分になり、驚きも一入だった。

驚きというならば、湖と言っても差し支えない大河にも面食らった。写真だと幾らかくすんで見えるが、実際には目が醒めるような青色だった。天色と言った方が良いかもしれない。不気味な程に鮮やかで、見れば見るほど怖気が込み上げてくる一方で、魅入らずにいられない。こんな景色を見られる場所の先にある温泉である。さぞ辺鄙な場所にあるのだろうと思ったものだが、先述した通り秘境と呼ぶに相応しい特異な空間に存在する温泉であり、混浴以前に木々と崖に挟まれた道を進んだ果てに現れた旧時代を感じさせる世界に圧倒された。

Googleマップ上ではそれほど時間のかからない距離であった筈なのに、現実に辿った道程は想定以上に長く、何より険しく細い山道を走り続けたため疲労感が強かった。自動車の存在しなかった時代、道路も整備された道すらなかった時代、どれだけの労苦を費やして人々がこの温泉を利用したのか想像すると鬱屈した気持ちになる。

 

混浴湯で目の前に広がる絶景

 

「曲がりくねった狭い道を走るのに慣れていて良かった」そう思いながら到着した先で車を降りて少し歩くと、古びた大きな建物がチラホラと目に留まった。

川を挟んだ対岸には、今は使われていない山荘やホテルがあり、一部は管理者の募集を行っている様子が窺えた。また写真の建物とは別のホテルが三千万円程の金額で売却に出されている。写真の山荘は裏の壁面が硫黄で爛れており、このまま放置していて良いのだろうかと思わせるが、解体するにしても解体費をどう捻出するかが課題になりそうである。昨今は岩手県内でも中華資本による宿泊施設の買収が行われており、中国人による中国人の為の宿泊旅行が催されていると聞くが、果たして冬季には封鎖されるこの地がそうした対象になるのかは気になる所である。

rotic.hatenablog.com

古びた建物が並ぶといった意味では、上記の記事で書いた宮城県気仙沼市の太田租界の様子を思い起こした。どちらも建物としての原型は今尚保っているのだから、昔に造られた建物というのは存外頑強である。いつ崩壊してもおかしくない建物を現在問題なく使えるかどうかは別としても、その逞しさには舌を巻かずにいられない。

エントランスで腰の低い番頭様に出迎えられ、受付にて各温泉についての説明を受ける。内湯は男湯として利用できない旨と女性専用の湯について説明を受けると共にそれ以外が混浴である旨を伝えられる。さりとて温泉というものの知見が乏しい労畜である。混浴と言われても今一具体的なイメージを持てていなかった。とりもなおさず何か建物の様なものが存在し、その先に露天風呂のようなものが用意され、そこを男女問わず利用するようなイメージを持っていた。混浴というよりそもそも露天というものをイメージできていなかった。そうした状態で、湯を目指す。

 

一度建物から出ると老朽化した建物が並び立つ道が正面に現れた。上の写真だとそうでもないように見えるかもしれないが、先に進むほどに「今、使えるのか?」と思うような老朽化が著しい建物が現れる。タイムリープでもした気分にさせられた。受付で案内された様に男が利用できると言われた湯を目指す。靴から履き替えたサンダルで土と岩の感触を踏みしめながら、奥へと行く。途中石段を下り、川縁に造られた湯の姿を認め、ここで初めて露天、そして混浴の意味を理解した。

 

川の傍らに建つ掘っ立て小屋のような脱衣所とその脇から見えるのは裸の男と彼のふぐりだ。少しすると豊満なふぐりをゆらゆら揺らしながら一番湯から二番湯へと歩いてくる男の群れが目に飛び込んでくる。なるほど、まさに露天。露出天国である。裸の付き合いなる言葉が太古より語り継がれているが、現実に湯船を挟んで見ず知らずの者同士で裸の付き合いなるコミュニケーションが生じる場面があまりない。人々の多くが新型コロナウイルス騒動を経験した今、尚更減っているように思う。

 

普段湯船を挟んで裸の付き合いなるコミュニケーションが生じていないのは、あくまで自宅の風呂に入っている延長線上で湯に浸かりに来ているためでもあるだろう。また大浴場ならば、わざわざ見ず知らずの裸のおっさんの隣に座って話しかけるのもおかしな話である。何に発展することを意図した行為なのか甚だ謎だ。だが大自然の中、川のせせらぎの傍らで小さな湯船を挟んで座っている状況ならば、会話をしてもおかしさはない。湯船にいるのだからお互いがふぐり丸出しなのも何ら不思議でない。言ってしまえば露天湯とは、裸の会議場、あるいは裸の休憩所である。普段我々が服を着た姿でコミュニケーションを取っている光景から服が消えただけなのだ。

 

そうか裸が日常になる世界。それこそが露天湯なのか。そしてそこに男も女も関係なくなるのが混浴。そう考えて、得も言われぬ納得感が労畜の中に生じた。一方で、そんな納得感を誰もが覚えるわけもない。来訪していた若い男の一団が「え、女の人ってどうするの? 一緒に入るの?」などと困惑した話をしている様子が見える。混浴なのだからそりゃそうである。とはいえ労畜もそうだったが、普段男女別、内湯を解した露天の温泉しか利用していない身にとって、男女共に吹き曝しの脱衣所があるだけの全裸前提の空間など異様に感じるのである。

 

これは生活してきた文化や育ってきた環境によって形成された意識によるもなのだろう。つまるところ混浴の露天のような男女共に裸で付き合う社交場との接点が幼い頃よりなかった我々にとって、各々素っ裸で交流する状況とは異質な環境であり、未知の異文化なのである。ましてポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)の過剰なまでの訴えやフェミニズムを謳う頭が逝かれている連中の異常なまでに偏った性概念への暴力を日々見聞きさせられる昨今である(※そんな話をしているのは極々一部の異常者だけで、真っ当なポリティカル・コレクトネスの訴え、フェミニズムの訴えは多く、耳を傾ける価値がある)。そうした概念とは一線を画している文化である混浴にさえ、それらに関する幻聴を耳にし、抵抗を覚えるのは無理もない。

館内には古き良き時代の温泉を掲げ、文化として混浴を大切にしている様子が窺えると共に、混浴のマナーについて丁寧な説明を行うよう努めている様子も感じられた(加えて男女で入浴時間を分けている様子も書かれている)が、一方でその古き良き時代から継がれている文化に触れた経験さえない者にとって、どうしたところで文化は異文化にしかならない。だからこその困惑である。昨今、こうした困惑が生じる要因になっている混浴温泉の減少について危機感を持って取り組んでいる動きもある。その良し悪しを置くとして、文化の断絶による無知が文化の弾劾に向かう可能性の高さを考えれば、そうした動きが出るのは必然だと感じた。これは混浴に限らず、ありとあらゆる文化と呼ばれるものに同じことが言えるのだと思う。

 

しかしながら混浴文化に関しては、声高に叫び多くの行動を起こしても、継承は難しいようにも感じられる。取り分け先述した若い男の一団の反応や湯が見える位置まで近付いたところで驚き慌てて踵を返した若い女客の様子を見るにつけて、性というものがどこかアンタッチャブルになり、男女の全裸の交流がすなわち性の営みに認識されてしまっている世代において、服を着ているか着ていないかの違いがあるだけの交流機会と言っても受け入れるのは不可能に近いだろう。それこそ子供の頃から当たり前に行っていなければ抵抗のある話であり、そうした環境を誰にとっても身近にする必要がある。少なくとも極々一部の温泉たちの間だけで嗜む文化のままでは困難だろう。

 

ところで、人生初の混浴の露天風呂はどうだったのか。その時の様子のイメージ画像が以下である。

画像の出典:ゴールデンカムイ野田サトル/集英社


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